白村江の戦いって 何の戦いだか分かりますか? (はくすきのえ の たたかい)
日本の社会の教科書では、
始めのほうに、あまり大きくない扱いで載っています。
教科書によりますが、「白村江の戦い」という名前は出ているものが多いです。
こっちは韓国の中学生用の教科書。
本文には記述がありません。扱いが小さいような。
欄外の説明補足欄に、内容が記述されています。
しかし戦闘の名称はありません。
これは、百済・倭 の連合軍と 唐・新羅の連合軍が
韓半島で激突して、結局唐・新羅が大勝利を収めた戦争です。
(日本という国号が定まったのが670年のことなので、一旦倭と呼びます。)
高句麗・新羅・百済の三国時代と呼ばれる時代が
統一新羅時代に至るまでの過程で起こった戦争です。
660年百済の義慈王が新羅軍に降伏して、一万人以上の百済人とともに唐に連行されました。
それが一応、百済の滅亡だとされているのですが、
各地に残った百済の残存勢力が、百済の復興戦争を始めました。
しかし、663年 白村江の戦いで 百済と倭は大敗を喫し、
百済の復興は絶望的になりました。
つまり百済の復興戦争の最後の戦いの地 が白村江です。
白村江で戦ったから、白村江の戦いという名称で呼ばれているのです。
またそのときの最後の守りの砦、最後の決戦地が周留城(州柔城)といわれる城です。
その後、百済遺民は新羅軍に追われて、
大量に日本列島に亡命したと言われています。
この大敗を噛み締めた天智天皇は、その後日本列島各地に防御用の城を築きます。
それが、九州の大野城や、香川の屋島城や、対馬の金田城です。
北九州に築かれた水城などは、その最もたるものです。
とにかく白村江の戦いは、韓半島の情勢を決定的にした戦争であり、
その後の日本の国外姿勢に多大な影響を与えた戦争です。
百済復興軍の将軍福信は660年に斎明天皇に派兵を要請しています。
それを受けた斎明天皇は戦闘用の船の造船から着手し
各地を巡回して戦闘準備を指揮したのですが、661年に68歳で崩御。
それを受けた次の天智天皇が、韓半島への出兵準備を受け継ぎます。
日本列島から派兵された人数は4万2千人と言われています。
このあたりのことは、日本書紀に記述されています。
当時の人口からすると、出兵兵力は人口の1%に相当するそうです。
しかも彼らの船、武器、食料までを考えると、
この派兵は、ほとんど全国家的プロジェクトだと言えるほどの規模です。
斎明天皇がこれに全面協力したということは、
当時の日本列島の支配層と百済の関係が
ただならぬものだったということが、うかがえます。
日本が外国と正面きって戦争した記録、しかも蒙古軍を迎え撃った防御の戦いでなく
自ら出向いた戦争と言うのが、豊臣秀吉以前これしかありませんでした。
ですから、この「白村江の戦い」は明治時代非常に研究され
また日帝時代、「日韓同祖論」の根拠としてたびたび引用されました。
日本人と韓国人の根は同じ という理論を作るために使われたのですね。
ということで、とても歴史的に重要な古代戦争なのですが、
意外と知られておらず、また、あまり韓日で研究が進んでない研究分野の一つです。
なにしろこの白村江の戦いの、白村江という川が一体どこなのか?ということでも
いまだに意見が分かれている状態でした。
私の夫は、この白村江の戦いという古代事件にハマッてしまい
とうとう2009年に「白村江の戦い記念事業会」という社会法人を立ち上げてしまいました。
現在のような日本と韓国の姿に分かれてしまった根っこはこの戦争にある。
古代はもっと自由に日本列島と韓半島には行き来があった。
だからこの戦争をもっとしっかり研究して、
その根の絡まりをといていかないといけないんだと使命感を持って
夫は社会法人を立ち上げました。
まあ、この人私が10年以上横で見てきて思うのですけど
自分が嫌なことって、絶対しないので
しぶしぶ使命感に押されてやってるというより
自分がわくわくするからやってる人です。間違いなく。絶対に!!
サラリーマン時代も、彼は随分自由に生きてましたね。
部下にもかなり自由を認めてました。
私がソウルに行ったり、旅行に行ったりできるのも
夫がそういう人だからなんです。
法人の具体的活動としては、「白村江の戦い」に関する研究の深化と、広報活動
ドラマ、映画の誘致、観光客の誘致、文筆活動、記念碑設立事業 などを
しているのですが、別にこれ、誰かが作ってくれた団体ではないので
給料はありません。 強制もノルマもありません。 ただただ、彼がやりたくてやっているだけです。
私は夫の活動につれ回されて、日本からのお客さんには通訳し
日本向けの広報文を翻訳し、ということを数限りなく繰り返していたために
もうすっかり年代まで空で言えるようになってしまいました。
そんなこんなでこの頃はもう日本のお客さんが来たら、
私が一人で説明し一人で案内できるようになりました。
ということを、この二年半くらい地道に地道にやってきていました。
昨日複盆子フェスティバルに行った折、
たまたま日本人の観光客の方と出くわしました。
挨拶して、実はこんなことをやっているんですよ と説明したら
「そこに行ってみたい!!」 とその方がおっしゃるので、今日夫と一緒にお連れしました。
その日本人観光客すずさんとの 周留城行き
よかったですよ。
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