一冊の本から
今日の記事、実は「わたしの夫婦喧嘩」なんですが、
いやー 結婚以来相当夫と喧嘩しました。
もし日本人と結婚してたらここまでしてないんじゃないかと思うのですが。
一番最近にした喧嘩、それが結婚以来最大の喧嘩だったのですが
そのことについて書かせていただきました。
先日、夫とそれはひどい喧嘩をしました。
私からも「もう、別れよう。」
夫の方も「出て行ってくれ。顔も見たくない。」ということになり、
ほぼ10日くらいその状態が続いてしまいました。
結婚以来最大の喧嘩といっても良いほどのレベルで
「終わりかも、、、」と思ったほどでしたが、
またなぜか元の鞘に納まりました。
何でそんな喧嘩をしたのかというと
実はこの本が原因でした。
いわゆる日帝時代と呼ばれた時代に存在した
平壌三中という中学校について書かれた学校史です。
とにかく大夫婦喧嘩はこの一冊がきっかけでした。
私が韓国で住むようになって、年配の方韓国人とたくさん知り合いました。
75歳以上くらいの方々の話ですが。
その方々から聞く日帝時代の話というのは、
一般に日本人が思っているイメージの日帝時代とは随分と違いました。
私が出会うそういった方々のほとんどは日本に対して現在でも良い感情を持ち
日本語を流暢に話し、当時の恩師や友人たち日本人との良き思い出を語って下さいました。
強烈に反日感情が強くて、日本人だというだけで偏見をもって向かってくるのは
その下の世代の方でした。 50代、60代(あくまでも私の個人経験ですが)
日帝時代がどんな悪の時代であったのか、戦後の歴史教育で聞いて知った世代ですね。
これってどういうことなんだろうか?
この日帝時代という時代を直に体験した方たちの
お話を直に聞いてみたいなあ 日帝時代の実際の姿を知りたいなあと
だいぶ前からうずうずしていたのですが、
目の前の仕事が片付かないので、
なんの約束も取り付けていないインタビューなんて
後回しになっていました。
すでに 呉善花さんが日本でそういうインタビュー集を出版してもいますが
私はできれば、それを読んで片付けたくなかったのです。
日帝時代が善であったと証明したいのではなく
話を直に聞きたいという欲求が強かったようです。
本とか出版物じゃなくて、できれば生の話をきいて、その場で質問もしたくて。
そういう気持ちがずっとあったのですが、
同じ町に住むある大学教授婦人のお父上が、
日帝時代に中学校で日本式の教育を受けられた方だというではありませんか!
「父はソウルに住んでるけど、一年に一度くらいこっちにくるから、来たら呼んであげるわよ。」
そしてそのお父上が書かれたという上記の本を貸してくださいました。
日帝時代の中学校の話! 読みたい!
どんなことが書かれているんだろうか!
とわくわく喜び勇んで読み始めたのですが、
最初の3ページくらいで、気分が重ーくなってきました。
ご想像はつくでしょうが、日本人にとって聞きづらいことが
たくさん書かれていたわけです。
あれもこれも全部日本が悪い、 一見いいことのように見えることも
日本の植民地収奪計画のひとつだったとか。
この学校史を書かれた方が、最も戦局のきつくなってきた時代に
学生時代を送ったということが影響しているのだと思うのですが、
最後の2年くらいはほとんど勉強をさせてもらえる環境ではなく
わずかな貧しい食事で労働力として酷使されたという話なども書かれています。
8月15日に日本の敗戦後の学校長の動向など、非常に面白い話も含まれていましたが
いろんなことが目について、なんだか気分の良くない読書でした。
「なんか韓国人からの視点が一方的過ぎて、客観性に欠ける。
どうも論旨に同意できない。」
そういう気分を夫に垂れ流していたら夫がいきなり激怒したのです。
「お前は、日本人として日本の罪をどう思ってるんだあー!!!
秀吉が一体何人の朝鮮人を殺したと思ってるんだ!
日帝時代に日本人がしたことがどれだけ卑劣なことか分かってるのか?」
うちの夫は学者なんですが、特に日本に対する反日感情が強いわけでもなく
どちらかというと、韓日が戦うのは結局は大国の利であり、無意味。
もともと日本には半島からの移民が大量に流れこんでいるのだから
先祖は同じ。 歴史を細かいところできらないで、大きなスパンと流れで見ないといけない。
と常日頃言っている人であって、そのために文化事業の社会法人まで立ち上げて動いているんですよ。
今まで、夫婦喧嘩は数知れずしてきましたが
ワイシャツを手洗いしなかっただの、おかずがどうだの、そういう生活レベルのことが
原因の喧嘩、または個人の性癖からおこる喧嘩 、それに留まっていました。
ところが 今回初めて
「日本人としての罪を問う」が喧嘩のテーマになってしまいました。
私も頭にきて
「いいわよねー 韓国人。ほんとにあなたたちがうらやましい。
いつだって被害者の立場に立てるんだから。 それ以上強い立場ってないわよね」
とか
「あんたたちの国が自主独立しようという意気地がいつまでたっても芽生えなくて
内部争いばっかり繰り返しているから、結局国を滅ぼしたんじゃないの、
いいかげんひとのせいにすんな」とか
「儒教という限定された思想を人に押し付けるな」とか
言ってはいけないことを二人してバンバンいってしまい、
夫のほうは
「日本人は全員が乞食のような暮らしをしろ」だの
「日本人は全員が反省文を書け」だの
「お前は今日から一口も飯を食うな」だの
むちゃくちゃなことを言い出し、
私のほうが 「もうさっさと別れよう。 やってられんわ」 と言い出したので
泥沼化し、凄いことになってしまったのです。
そして10日後、和解条約 (地名にちなんで2011年高敞条約と呼んでいます。)
その場で二人して 「なんであんなこと言ってしまったんだろう????」
と首を傾げました。
私も夫も自分にはこれ以上合う人は見つけられないと思うくらいに
お互いがお互いを支え、影響を及ぼしてきたと自負しているのですが。
うちの夫も 「よく分からん。」
私も 「よく分からん。」 なんですよ。
それでまあ、始まりはやっぱりあの本なので、
それくらいあの本にインパクトがあったということで。
私は昨日この本の著者に会ってまいりました。 つづく、、、、
つづき、、、
韓日歴史問題が、夫婦喧嘩の原因になってしまった話の続きを書きます。
随分と長く書いてしまいました。 濃い目のが好きな方どうぞ。
「平壌三中 学窓の追遠史 」という本がきっかけで、大喧嘩になったのですが、
これ日本でも売られているんですね。
本には非買品だと書いてあったし、内々で作られたものだと聞いていたので、
一般の書店では売られていないと思っていたのですが。
以下、本の目次です。
第1章 建学期の平三中(建学期の時代背景神社参拝と崇実学校 ほか)
第2章 成長期の平三中(成長期の時代背景新陽里キャンパスの平三中 ほか)
第3章 苦難期の平三中(苦難期の時代背景第四次朝鮮教育令下の平三中 ほか)
第4章 終焉期の平三中(終焉期の時代背景平三中の教育の復活 ほか)
日帝時代の中学校の生活を書いた著作が他にあるかどうかしりませんが
韓国人がかいたもので、ここまでしっかりまとめられて、しかも一冊の本になっているものは
他にないと思います。
私はこの本に対して「韓国側の主張が一方的過ぎる!」と軽い拒否感を感じたのですが、
李元淳先生が書いた他著作に関してよく似たレビューがネット上に上がっていました。
「若者に伝えたい韓国の歴史」という本なんですが
以下レビューです。
著・李元淳他「若者に伝えたい韓国の歴史」を読んだ。
韓国旅行の前に歴史の知識も少々仕入れておこうと、
内容もよく確認しないで買ってしまいました。
でも、読み始めてビックリです。
いわゆる教科書問題に対する
韓国政府の「2003年度日本歴史教科書対策および韓国を正しく知らせる事業」
の一環の出版物だったんですね。
内容としてはかなりバイアスかかっています。
古代において高度な文明をほこる韓国が
文明の遅れた日本にいかに多くの影響を与えたか、
近代においては日本がいかに韓国を蹂躙したか。
これだけしか記述されていません、といってもいいぐらいです。
重層的な歴史をこんなシンプルに切り取られると、
ちょっと待ってよと言いたくなってしまいます。
もちろん戦前に日本のおこなった韓国併合は最も恥ずべき愚行であり、
忘れることはできません。
であるからこそ、「若者に伝えたい」という韓国の歴史を
こういった手法ではうまく伝わらない気がします。
まぁ、いずこも政府であっても、国家が関与した歴史書には
ろくなものができないってことかもしれません。
以上です。(一部削除)
本は違えど、このネット上のレビュアーも、私と同じ部分で拒否感を感じているのが伝わってきました。
李元淳[イ ウォンスン]氏
1926年7月26日生。平安南道平原郡出身。
1949年、ソウル大学校師範大学卒業。
米国Peabody大学にて研究。
1976年、ソウル大学校師範大学歴史科教授。
ソウル大学校師範大学学長、国史編纂委員長を歴任、文学博士。
現在、韓国教会史研究所顧問教授、ソウル大学校名誉教授
という方でした。 現在84歳でいらっしゃいますね。
上のプロフィールは日本のネットで探せばすぐに出てくる情報です。
韓国のネット上ではもっと詳しく出てきます。
韓国でソウル大学の教授。それも歴史学。 ソウル大の学長も勤められた。
そして国史編纂委員長を経験。
ということは、つまり韓国の歴史学会の中で一番偉い人 といっても過言ではないわけです。
たまたま知り合いの婦人のお父様だったということで、
私は先日の夜、子どもを寝かせてこの方のお宅に伺いました。
李元淳教授は、非常に日本語が流暢でした。
日帝時代に教育を受けた方といっても、日本語を忘れてしまった方もいらっしゃいます。
しかし李教授は、1945年以降日本に渡った回数が70回以上。
一年間筑波大学にいらしたこともあり、
へんな表現ですが、普通の日本人以上に日本語の実力が高い方でした。
流暢な日本語を生かして東京大学の教授たちとも親交深く、
今月も慶応大学でのセミナーに招聘されていたのだが、
体調の関係で出向けなかったということでした。
私は「平壌三中 学窓の追遠史 」の中で疑問に思ったことをお聞きしました。
まずは、李教授ご自身の在学期間。
文章全体に批判的な観点が強いので、おそらく終戦まぎわに
過酷な学校生活を送られたのだろうと思っていましたが、やはりそのとおり1938年から1944年でした。
最後はもう勉強どころじゃない環境だったことでしょう。
本の目次でも学校史が建学期、成長期、苦難期、終焉期と分けられていましたが、
まさに苦難期と終焉期を生きた方でした。
日帝時代の始まりにはいくつか説があります。
1910年の日韓併合条約からが日帝時代だという説をとっても日本敗戦の1945年まで35年もあります。
35年という期間は短いようですが、生まれた子供が35歳になるまで、というのは結構な期間です。
一口に日帝時代といっても、初期と末期ではかなり違いがあったことが伺われます。
(韓国では強制的に占領されていた時代"という意味で日帝強占期とも呼ばれます。)
たとえば、学校で朝鮮語を教えるか教えないかという問題。
併合後、朝鮮語は公教育で必須科目として教授されていました。
しかし朝鮮教育令の改正に伴って、1938年には随意科目となり、
朝鮮語教育は公立学校からほぼ完全に排除されていったそうです。
朝鮮教育令の改正というのが何度もあったので、初期と後期の教育はかなり違っていたでしょう。
「平壌三中 学窓の追遠史 」の中に入っていた時間割の中にも「朝鮮語」がありましたので
李教授に「朝鮮語の授業あったんですか?」と聞くと
「あるわけない、それはもう書いてあるだけ。
だって、学校で使う言葉に朝鮮語が、混じっただけで一日中正座させられるくらいだったんだから。」
この平壌第三中学校は非常にスポーツの盛んな学校で、
特にバスケットボール部は、半島大会に優勝した後、
内地と呼ばれていた日本での試合でも優勝したほどだったそうです。
当時の写真には溌剌としたバスケ部部員の顔が並んでいます。
これも初期の話ですが。
日帝時代の中学校の中での、日本人の生徒だけが通える学校と
朝鮮人の師弟も通える学校の二つがあったそうです。
当時中学校に子供を送ることができる朝鮮人家庭というのは有産階級でした。
李教授のお父上も教師だったそうです。
そして創氏改名問題のことも伺いました。
「創氏改名は強制ではなかったと主張している日本の学者がいますが、先生の場合はどうだったんでしょう?」
「創氏改名は任意だったなんて、それは口だけ。 しないと社会で生きていけなかったんですよ。
特に私の家は父親が教師でしたからね、改名しないと仕事も続けられない状態でしたよ。」
「平壌三中 学窓の追遠史 」には入学生の氏名が載っている。
「ほら、私の名前、入学の時は 李元淳だけど、入学二年目に改名したんですよ、日本式に。」
創氏改名しないまま、出世した朝鮮人について、
なぜそういうことができたのかの理由を説明してくださいましたが、これはちょっとオフレコ。
「神社ってどれくらいの割合で作られたんですか?」
「一面一神社という決まりだったんですよ」 (一面は郡を分ける単位)
「神主さんて、いたんですか?」
「そりゃあもちろんいましたよ、巫女さんもいた。 きれいな巫女さんでしたよ。」
「家にも神棚設置が強要されたんですか?」
「一応そうすることになってたけど、神社から、「天照大神」のお札というか、?大麻(おおあさ)
っていってたと思うけど あれもらってきて家に貼り付けておいたら、それで大丈夫だったんですよ。」
「結婚式とかも神社でやってたんですか?」
「日本人は神社でしてたと思いますよ、でも韓国の結婚式は大体家でするからね。
神社での結婚式までは強要されなかったと思いますよ。」
「教育勅語を校長先生が奉安殿から引っ張り出して、読み上げてってのは毎日ですよね。
神社参拝も毎日だったんですか?」
「いや一月に一回くらいだったなあ」
「日本の古典とか神話とか、戦前の教育では徹底的に教育したと思いますが
ああいうの、やっぱり朝鮮でもやったんですか?」
「やりました。やりました。学校で檀君神話の話(朝鮮の建国神話)なんか一度もでなかったけど
その代わり日本の神話はよーくやりました。 日本の歴代天皇の名前を覚えることとか、
自分たちは本居宣長の文章とか良く読みましたし、日本の「候文」(そうろうぶん)
あれを書かされたんですよ。自分たちはそういう意味ですごく高い教育を受けたと思いますね。」
「日帝時代の台湾統治と韓国統治の違いはなんだと思いますか?」
「あれは総督が海軍出身か陸軍出身かの違いが大きい。 同じ軍隊でもだいぶ違うから。
韓国の総督は歴代陸軍出身だし、統治も総督の裁量が大きかったから」
「平壌ってところはね、たとえば 1945年8月15日に神社がすぐに倒されたところなんですよ。
ソウルの神社は解放後6ヶ月は残ってたっていうのに、それくらい民族意識が強いところでね。
だから平壌三中ができるときにも、集められた教師ってのが、腕に覚えのあるのばっかりでね、
それくらいじゃないと平壌でやっていけないから。」
と朗らかに何をきいても明朗快活に気持ちよく答えてくださる。
そして、この年代の韓国の方が今までも私に対してそうであったように、
私という日本人が尋ねてきたことをとても喜んでくださっているのが分かった。
話はすべて日本語で始まり、日本語で終わった。
韓国語を使う必要があったのは地名か人名くらいだろう。
すごいレベルでのバイリンガルである。
日本のおじいさんより日本語が達者ではないだろうか。
そりゃあ日本での講演に通訳はいらない。 いや通訳を買って出るくらいだろう。
こういう人の前では通訳したくないもんだ。
しかもこの李教授が改名した日本の名前というのが「徳島源一郎」さんなのだが、
私は「徳島県」出身である。 教授もびっくりしてた。
今まででたくさんの日本人にあったが徳島出身の人には初めてあったという。(田舎ですからね)
実は李教授のお嬢さんの名前と、うちの娘の名前も同じであった。
うちの娘の名前はちょっと珍しい。
不思議だねー と言い合った。
なぜか分からないけど、こうやって理由もなく出会ってしまう人というのは
そういう不思議な符合があったりする。
李教授、日本は何度も訪問し、四国は徳島県以外全部行った事があるという。
なぜか自分と同じ名前の徳島だけは、行かずじまいで終わってしまい、
今は少し足がよくなくて、旅行に飛び出していくこともちょっと億劫になってしまっているという。
創氏改名問題にぶち当たった韓国人は、自分の名前の一部に別の漢字をくっつけたり、
変形させたりして苗字を作ったりした人が多い。
金さんが金田さん、安さんが安田さん、 朴さんが木下さんという具合に。
なぜ李さんが徳島さんになったのか、という話なんだが、
李教授の住所が当時、徳山面蜂島里だったそうで
地名から漢字を二つ抜き出して、苗字を「徳島」になったそうだ。
しょうがなかったという雰囲気が感じられる改名である。
たとえば私が今から「名前変えろー 」 といわれて
「しょうがないわねー 変えないと配給もらえないっていうんだから。
家の前に川が流れてるから 前川さんでいいか。 」
てな感じじゃないか。 命名に対する意気込みも希望も感じられたもんじゃない。 すごい投げやり。
話は変わるが、私が日本語を現在教えている子たちは「せんせー 日本語のなまえつけてー!!」と
頼んでくる。 その中のひとりで、 「僕、今日から韓国の名前やめて、 山崎ヒロトになるから」
と親に宣言した奴がいた。 創氏改名いまむかし、、、、
彼の親が笑って話してくれたが、彼の家には厳格なおじいさんがいるのを私は知っている、、、
そんな風に、聞いても聞いても話は尽きず、
「先生の書いた学校史がきっかけで、夫婦喧嘩をしてしまいました」という話まですると
「えっ?私の本のせいで? あれにそんなすごいこと書いてあったかなあ?
でもそりゃ悪いことしたね。 大丈夫だった?」
人格者である。 しかも韓国最高エリート。
そしてエリートの名に恥じない教養をお持ちである。
おそらく日本の学者さんで50代、60代の方位だったら
この方の教養に圧倒されるし、日帝時代の体験者でしたなんてなると
もうこの方の意見に反論できないのではないかなあ と思った。
別に酒が出てきたわけではないが、随分話して気が緩んでこんなことまで言ってしまった。
私は「先生はねー 、韓国の中でもいい韓国で生きてきたんですよ。
韓国ってのは実はすごい階層社会だから、上層と下層の考え方ってだいぶ違うんですよ。
私なんか嫁いだ夫の家が貧乏だったから、そりゃすごい世界だったんですよ。」
というと、
「えー?韓国 上層と下層そんなに違わないでしょう?」
などどいうので「そんなわけないでしょう、すんごい違いですよ。」
「そーかなあ???」
歴史的質問なんかさておいて、もうこうなると茶飲み友達気分である。
夜遅くなったので、これ以上は失礼だなと思い、切り上げた。
またお会いすることを約束して、李邸を後にした。
そしてこう思った。
「平壌三中 学窓の追遠史 」や「若者に伝えたい韓国の歴史」の中に嘘があるとは思わない。
当事者として、体験者としての真実だという思いは理解できる。
しかし、平壌という地域が過去に「東洋のエルサレム」と言われて、
非常にキリスト教伝道が盛んだったため、皇国史観の押し付けに非常な抵抗があったこと。
檀君神話発祥の地として民族意識が特に強かったことは考慮に入れないといけないと思う。
ここで行われた皇民化教育は、もともと非常にやりにくいものであっただろうし、
敗戦前の時期においては特に過酷だったのかもしれない。
土地を奪った、米を奪った、何がしを奪ったといわれるが、
何よりも一番過酷なのは精神的収奪である。
朝鮮は、なにより族譜を生命視する国だ。
改名させられるということは、ここで一旦先祖との関わりを
切らなければいけないということになる。
私は現在嫁ぎ先で、夫の兄がそれは大切に族譜を守り、
他のことは何もしなくても、祭事にだけは命を掛けている姿を見ているので、
当時の人々の先祖祀りに掛ける情熱がどれほどのものだったか想像に難くない。
名前を変えろということは、つまり当時の朝鮮の人々には「一旦死ね」といわれるほどの
衝撃だったのだと思う。 なぜなら彼らはそこに最高の価値をおいていたから。
このことについては日本人として本当に申し訳ないと思う。
創氏改名は朝鮮人と内地人を同化し、平等にするための政策である。
本当の差別政策であるなら、絶対に被征服民の名前を同化させないのだから、という意見がある。
政策的にはそうであったかもしれない。
しかしそれは朝鮮人の精神世界を、まったく無視したものだったと言うしかない。
併合までに、日本の学者が「朝鮮」という国を大調査している。
併合後も調査は続いている。
私の故郷の「鳥居隆蔵博士」なんかはそういうことをしてきた人だ。
私は去年縁あって、鳥居博士が韓半島全土を回って写した膨大な写真を目にした。
何百枚じゃなくて何千枚だった。
それくらい調査を重ねたのに、それくらい「朝鮮」を研究したのに
「創氏改名」は施行されてしまった。
最初は確かに任意だったかもしれないけど
戦争の状態が泥沼化してくると、あれもこれも締め付けがきつくなってほとんど強制になってしまった。
食料が配給制になったので、改名してない人間には配給切符があたらなくなったという。
多分日帝時代に「「創氏改名」がなかったら、
こんなにいつまでも日本人は恨まれなかったんじゃないかと思う。
当時の朝鮮総督府の政策が、すべて朝鮮を略奪し、搾取するためであったとは
私は思いがたい。 いくら、そういう文献があったとしても。
私を目の前にして「日本はいい国です。」と私に語ったハラボジ、ハルモ二たちが
存在したことも、私の側からの真実である。
そして日帝時代を恨み批判する韓国人戦争体験者の思いがそれほど強いとしたら、
それは、恨むべき日本に日本語で教育を受け、今でも青春時代の思い出は日本語を伴って
出てくるという自分自身に対する憤りと批判の裏返しであるのではないかと思う。
李教授がこういった
「同窓会で旧友に会うでしょう? それでね、どうしても創氏改名でくっつけた日本名でしか
そいつの名前を思い出せない。韓国名がでてこないんですよ。どうしてもでてこない。あれが辛いんですよ」
これも、李教授の真実である。
我が家の子供たちには二つの名前がある。
パスポートも二つある。 日本と韓国のもの。
年頃になったら自分で国籍を選ばせる。
子供たちが生活しているのは韓国だが、生活できるくらいの日本語は身につけている。
バイリンガル。 響きのいい言葉である。
李教授のような方、彼らもバイリンガルではあるが、彼らの流暢な日本語には
そんな軽い耳あたたりのいい言葉は似合わない。
歴史のなかで、望まざるところで生まれてしまったバイリンガル達である。
私はこういった日帝時代に教育を受けた韓国の方々に
簡単に「日本が悪くて申し訳ございませんでした」と言いたくない。
いうならちゃんと「何が悪くてどこがどうで」と分かって言いたい。
李教授を前にして、楽しい軽い話ばかりしているのに
どうしても「引き裂かれた私」をという感じを受けて仕方なかった。
その感じが数日ずうっと続いている。
そして李教授はもう目の前にいないのに、
どうしても「名前」に関する話にまつわる悲しみが、浮かび上がってきて涙がでる。
李教授に、お礼の手紙を書こうと思っている。
長くなりましたが、こんなことがありました。
お付き合いありがとうございました。