1960年代発の韓日カップル(2011.6)
私が美知子さんに初めてお会いしたのは、確か2008年でした。
当時ソウル在住だった私は、歌が歌いたくて適当なコーラスグループを探していました。
日本人駐在員さんたちの集まりであるソウルジャパンクラブという会のコーラス部が
あることを知り入会しました。
当時、この団体を指導していたのが、韓国CANON支社長の奥様でした。
この方は韓国駐在がほぼ10年になられるようでした。
奥様は持ち前の才能と人徳を生かして、それは見事に合唱団をまとめていました。
ソウルジャパンクラブの構成員は、駐在員さんとその家族が多いようですが、
日本駐在の経験を持つ韓国人の方など、
日本語が流暢な韓国人の方もいらっしゃいました。
また、私と同じように、韓国人の夫と結婚したため
韓国生活で生活しているという日本女性も数人いました。
結婚による移住というルートで韓国の地を踏んだ女性の中で
ひときわ目立つ女性がいました。
「美知子さん」と言う方なのですが。
この方は現在、前述のコーラスグループのまとめ役をなさってます。
美知子さんの何が目についたかというと、
まず、日本人女性としては、良すぎる位の姿勢の美しさ。
美知子さんの立ち姿は、背筋がすっと伸びてすがすがしい。
なんでこんなに後姿が綺麗なんだろうか?
首の角度がいいのかな?肩や、腕の贅肉が全然ない。
「スチュワーデス出身」と聞いて妙に納得したのを覚えています。
イタリアマダムっぽい雰囲気を持った気さくな方です。
美知子さんがご主人と知り合ったのは1960年代
いまや韓日カップルなんて珍しくもありませんが、
当時は、本当に数が少なかったのです。
美知子さんの在韓歴もいまや28年を超えたそうで。
こうして同じ日本人として韓国に住んでいても、
「いつでも相談していらっしゃい。」
という言葉が出る日本女性というのは、実はそう多くないものです。
美知子さんはいつも私に、
「なにか困ったことがあったら、いつでも電話してね」と言ってくれていました。
幸いにも、ソウルを離れた後、私自身に困ったことはあまり起こらず、
どっちかというと他人の世話ばかり焼いて過ぎた2年間でした。
美知子さんにヘルプを求めることは一度もなくて済んだのですが、
一度彼女の話をゆっくり聞かせて頂たいとずっと思っていました。
彼女が韓国に来ることになったいきさつ。 ご主人との関わり。
現在までの生活と、その中で感じたこと。
こうやって韓国で長く暮らしてみて、改めて韓国をどう思うか? ということなどを。
先週、その夢が実現したので、文章をアップします。
お話を伺いに立ち寄った美知子さんの住む高層アパート
この近所では有名な高級アパートです。
どうぞ「美知子さんの物語」、
いえ、「美知子さんの冒険」とでもいうべき波乱万丈な人生の物語をお楽しみください。 つづく。
美知子さんは1940年代後半に、九州で生まれました。
ずっと地元で暮らしていた方ですが、
大学一年生の一学期に、JALスチュワーデスの試験に受かったそうです。
(当時は一般的にスチュワーデスと言っていたので、その名称で通します)
合格者が400人に一人という難関の試験。
まわりも自分も「何で私がうかっちゃったの?」と不思議に思ったと笑っていました。
大学中退が入社の条件だったそうですが、美知子さんは何の迷いもなく、JALに入社。
8ヶ月間の厳しい研修を終えて、国内外の空を飛び回っていました。
フライトから帰ってくると「みっちゃーん、ドライブに行こうよー」と
遊びに誘ってくれる麻布在住のお坊ちゃん友達がいらしたそうです。
1968年の年末、そのお友達が、ある韓国人留学生を一緒に連れてきました。
「ミスター・ソン」と呼ばれていた韓国人の彼は美知子さんよりずっとずっと年上でした。
彼はソウル大学の法学部修士を取得後、1968年の春から
上智大学法学部の博士課程で学んでいた留学生でした。
美知子さんはだんだんとソンさんと二人で会うほうが楽しくなり、
二人は恋に落ちました。
ソンさんと結婚したいとご両親に意志を表明したものの、
15歳の年の差と、外国人だという難しさがありました。
しかも今と違って韓国という国は、日本人にとってかなり不透明な国でした。
当然のように、美知子さんのお父様と叔父様からの大反対を受けました。
「ああいう男は韓国に本妻がいるに違いない! お前は騙されているんだ!!」
仕方ないので、美知子さんは、親の許しをもらうのは一旦諦め、
1970年の秋から、ソンさんと一緒に暮らし始めました。
それが美知子さん21歳 ソンさん36歳の時です。
ソンさんがスチュワーデスを辞めてほしいというので、JALを退社しました。
美知子さんのスチュワーデス時代の高給の蓄えは、
当時家一軒買えるといわれていたほどで、
それを元手に二人は共に生活を始めました。
二人のおうちは東京の高円寺。
ご主人は変わらず上智の院生として学び続けていました。
3年目くらいに手持ちのお金が尽きたので、
美知子さんは得意の英語を生かして、英語タイピングや
外資系企業などの秘書をして生活を支えてきたそうです。
高円寺で暮らし始めての一年目、美知子さんのお兄さんの結婚式のため
お父様が上京しました。
その足でお父様は美知子さん家庭の様子を見に来ました。
二人が暮らしている様子に安心して、お二人の仲を許してくださったそうです。
お父様は、ご主人のソンさんを「一緒に飲もう」と外に連れ出しました。
ソンさんの性格の強さを感じたお父様は、
「ソンくんは、日本人と比べて激しいから、抑えなさい。
愛情は小出しにしていかないといけない。
そういう愛情表現は多分美知子には合わないと思う。」
とご主人にアドバイスなさったそうです。
ご主人はこの言葉に「本当にそうだった。お父さんありがとうございます」と
深く感動なさり、後でそのことを伝え聞いた美知子さんも、今まで黙って見てくれていた
お父様のひかえめな深い愛情に胸打たれたそうです。
その後、1977年にご主人が博士号を取得なさいました。
結婚式を挙げたのも、お二人が暮らし始めてから7年目になる1977年のことだったそうです。
韓国からはソンさんのお父様が、美知子さんに着せるチマチョゴリを準備して日本に来てくださいました。
ソンさんと美知子さんの二人は、上智大学の中にあるクルトゥルハイムという
小さな聖堂で結婚式を挙げました。
当時の学長であったピタオ氏が結婚式を取り仕切ってくださいました。
結婚式の写真が美知子さんのお家に飾ってありました。
チマチョゴリを着たなんとも初々しい美しい花嫁の横顔でした。
「私このとき自分で髪をアップにしたのよ。」
美知子さんは当時の思い出を語ってくださいます。
さて、1983年、ご主人とともに韓国でくらすことになった美知子さん。
美知子さんはその能力を生かして韓国でも忙しく活動しました。
現在韓国の教育放送チャンネルであるEBSがなかった時代でした。
日本語教育は、KBS2という放送局が扱っていました。
その日本語教育放送のネイティブスピーカーとして
美知子さんは1984年から1988年毎日テレビに出ていました。
これがその当時の写真。
「収録が一週間に一回なの、でも衣装は毎日変えないといけないから
あの頃、イテウォンとかよく行って、服を探し回ったものよ。
テレビ写りがいいようなものをね。だから私いいもの探すのが
すごく上手なのよ!」 と美知子さんはお茶目に笑います。
1960年代発の韓日カップル(2)へ つづく。
その後、テレビの仕事は他の人に譲って、
家庭に収まった美知子さんですが、
その後も教授夫人としての活躍はずっと続きます。
お話を伺ったのはこのお部屋。
韓国移住の時、日本から運んできた飛騨の家具がいまだにとても素敵でした。
ご主人がとても面倒見の良い教授だったため、
お家にしょっちゅう学生さんたちを連れて帰ってきたそうです。
論文の締め切りの迫った生徒などは
泊り込みさせて書かせていたほどだったそうです。
その学生さんなんかは、もう泣きながら書いていたと
美知子さんは懐かしそうに語ります。
どのお部屋も学生さんたちが来た時は大賑わいだったそうです。
こっちも
学生たちにおいしいものを食べさせ、お酒の準備をし、
酔いつぶれて寝込んで二日酔いして起きてくる学生達に、朝ごはんを準備し。
美知子さんの手先の器用さと豊富なアイデアの見せどころです。
美知子さんが冷蔵庫にあった材料でつくる
型にとらわれない料理は、今でいえばフュージョン料理。
当時はそういう言葉はありませんでしたが、
少しでもおいしいものを食べさせて喜ばせてあげたいという気持ちが、
奇抜なアイデアの源となり、楽しい料理の数々を生み出したそうです。
ご主人というのは実に、責任感の強い立派な教育者だったのでしょう。
しかし、陰で支える奥様の大変さと言うのは、、、、。
これはご主人様が受けた褒賞類の数々。
このお二人にはお子さんが生まれることはありませんでした。
それが何故だか分かりませんが。
「そんなことどうでもいい」と笑い、奥さんを褒め称えつづけるご主人は、
「僕の美知子」または「僕のミコ」と、いつも愛妻の名を愛しく呼びました。
美知子さんはご主人と過ごす時間を最大限に楽しみました。
車の免許を持たないご主人を横に乗せて、
美知子さんは車で韓国全土を走り回り、いろんなところをドライブしたそうです。
二人は共に旅行し、音楽を聴き、俳句を作り、人生を謳歌していました。
しかし、ある時、ご主人は体に変調を来たしました。
2006年の年末頃だったそうです。
病気は糖尿病の合併症からくるものでした。
入院生活に入ったご主人の元へ、
美知子さんが顔を出さなかった日は一日もなかったそうです。
しかし2008年に最愛のご主人は脳梗塞でこの世を去りました。
一生を共にしてきた最高の友人であり、恋人であり、先生であり、
とにかく人生のすべてであった彼を亡くした美知子さんの嘆きは
どれほどのものだったか想像に難くありません。
カトリック教会で大きなお葬式が行われました。
お付き合いの広いご主人のお知り合いや、
現在では各大学の教授になっている教え子達で教会の席は埋めつくされました。
ご主人が生前作られた俳句は、木彫りのオブジェになって
部屋のあちこちに掛けられています。
ご主人の死後、美智子さんが、ご主人の日記を紐解いていた時、
こんな記述を見つけたそうです。それは2006年に記されたものでした。
僕の美知子の性格
・頭がいい
・我慢強い
・気配りができる
・無駄遣いしない
ここにだけひっそり書かれていたわけではありません。
料理がうまい、お金のやりくりが上手。手先が器用だ。
ご主人は言葉を惜しむことなく
美知子さんのいる場所で、おそらくいない場所でも
いつもいつも賞賛してくれていたそうです。
実際、美知子さんの手際というのは、実に見事なものでした。
ご自分の粋なヘアスタイルも「自分で切ったのよ」。えっ すごい!
生前のご主人もカットは美知子美容室だったそうです。
着物の着付けもスチュワーデス時代に ファーストクラス用のトイレで
ささっと着替えることができるくらいでしたから、お手の物。
美しい富士額の映える結い髪の若き美知子さんを
描いたイラストが飾りだなの中にありました。
美知子さんはご主人自慢の愛妻でした。
ご主人の教え子さんたちは、「奥様は先生の作品だから」 と口を揃えていうそうです。
彼らは今でも美知子さんのご機嫌伺いに、入れ替わり立ち代りやってくるそうです。
私がインタビューにお邪魔した日も、
美知子さんには、ご主人の教え子のお嬢さんの卒業式に同席なさるという予定が入っていました。
そのため、走り走りのインタビューになってしまいました。申し訳ないところです。
「ご主人が亡くなられた後、日本に帰ろうとは思わなかったのですか?」という質問に、
「韓国の方がいいわね。 長く住んだし、いろいろ便利だし」とあっさり。
「韓日家庭の後輩達になにかアドバイスはありますか?」
「韓国に長く住んだら、普通の日本人と言うより、半分韓国人よね。
いろいろあるかもしれないけど、あんまり深刻に考えないで、
ここが第二のふるさとだと思って、ここで一生生きてもいいやって思って
なんでもやってみるのがいいんじゃないかしらね。
韓国人ってやっぱり日本人より情が厚くて、私なんかは付き合いやすいし
友人ができやすいと思うの。それが韓国のいいところだから
そのいい部分を見てほしいと思う」
「じゃあ 韓国で大変なことってなんでしょうか?」
「んーやっぱり 祭事とかじゃないかしら。
あれは大変よね。私は祭事の形ちょっと変形させたのよ
長男の家にだけ負担が行かないように、下の家にも責任分担をわけたりしてね。 とても大変だから。」
ここからいつもの恒例インタビュー
「ご自身のことを運のいい女性だと思いますか?」
「思います。すごく運がいいと思います。」
「お財布はどんなものをお使いですか?」
と伺うと、黒い長財布を見せてくださいました。
美知子さんが運のいい女性だってのは、聞くまでもないことですね。
美知子さんは写真の中のご主人に
「今日はコーヒーにする?」と伺って、おいしい一杯を捧げます。
インタビュー中にも「あっ、今、主人がこっち見て笑ったのよ。」
ご主人はこの家の中で生きているかのようでした。
美知子さんの心の中には、今でもご主人はちゃんといらして対話を交わしています。
生前のご主人との思い出も、両手からこぼれるほどいっぱい。
それでも物足りなくて、まだまだ毎日美知子さんは
ご主人に語り掛け、ご主人と対話し、新しい物語を紡ぎつづけています。
「主人のおかげで私の世界が広がったの。
いつも私をリードしてくれて。でも、いつも二人でやってきたの。」
ソウル郊外の高級アパートの一室で
美知子さんは今日も
ご主人と語りあいながら、幸せな韓国生活歴を一日一日更新しているのです。