錦山郡史2012.3.
書籍の紹介ですが、
といっても、これを誰かが買いたくても今や購入できないので
これは私の見せびらかし?
かもしれないと思いつつ紹介します。
正確には本の内容よりも
写真の紹介かもしれません。
この本錦山郡史というのは
韓国の郷土資料です。
うちの町にも高敞郡史というのがありますし
おそらくどこの町にもあります。
これも先日の高校古書整理で見つけた本
もうちょっと詳しく見たくてお借りしました。
1935年発行の錦山郡史です。
つまりその時代は「日帝時代」の真っ只中です。
しかもこの錦山という地域は
特に日本とのかかわりが強かった地域です。
地図の中の青い○が私の住む町、高敞
☆が茁浦という港町で、 赤い○が錦山です。
うちの町でとれた米は一旦、小さな船で茁浦に運ばれ
それからまた錦山に運ばれて
大きな船で日本に輸出されていたそうです。
錦山も茁浦も港町で
日帝時代には 茁浦に1000人以上の日本人が住んでいたそうです。
先日紹介した高敞の金一族なども工業化の波に乗る以前に
米を日本に輸出することで、財産を蓄えました。
米などの輸出用物資が集まってくる錦山は
大変その貿易で栄えたそうで
当然日本人の移住者も多かった。
日帝時代韓国には一面一神社ということで
あちこちに日本風の鳥居が建てられますが
この錦山にあった錦山神社の規模の大きさにはビックリしました。
もちろん当然今はありませんので写真だけですが。
ええっ! この造り。
これが日本じゃないっての? とビックリしました。
資料を読むと、大正4年にたてられたそうです。
氏子区域や維持システムもきっちりと整備されていたようです。
この立派な石階段は大正9年造成。
神輿なんかもあったようです。
かなり途中で手が入り、お金も掛けて増築されたようです。
皇太子誕生記念事業としてまた手が加わったという記述も。
錦山には当時、金毘羅神社まであったそうです。
ここには日本にあるお寺もほとんどの種類揃ってたようで
本願寺だの、浄土宗だの、日蓮宗、曹洞宗、高野山とありますね。
日本キリスト教会からの支部のようなものもおかれてます。
なぜかというとこの錦山には
日本全国からの移民が集まる
不二農場という移民開拓地域があったのです 。
その土地に皆が自分の出身県の名前をつけて住んでいました。
長崎村もあるし、福島村も、香川村も
当然徳島村もあります!
それもすごーく良い場所にありました。 昔の地図で確認したのですが。
こういうのは早く移住したもの勝ちみたいですが。
この不二農場はいまでは工場が立ち並んでしまい
見学することは叶いません。
不二農場だけでなく、ここは本当に日本人が大量移住していたので
錦山の当時の地名は
明治町に栄町
移住者の内訳は愛媛、広島、福岡、大分、長崎
そして山口からの移住が非常に多い! これがダントツです。
1934年の統計で山口からが1355人です。全部で一万人足らずの中。
この後10年でもっと増えたことでしょう。
いやー よく調べてある。
水揚げされる魚の種類から重さまで
為替レートに郵便から電信まで。
これは詳しい!
うぎゃー芸妓の数から妓生の数まで書いてある!
遊郭の説明まであるぞ、
港町だからなあ、需要があっただろうなあ。
内地人の経営する娼館が8つあり
61人の娼妓がいたと書いてある
朝鮮人経営のは三つで娼妓が26名だそうだ。
そんなことまで管理してたのねー!!
なぜか娼妓には第一種と第二種があると書いてある
何の違いだ?
カフェの数は17戸、女給の数は百数十はいるであろうが
正確に把握不可能(常時入れ替わるから) だそうだ。
なんだなんだ?
国民精神作興運動って?
生活改善
色服着用 断髪励行
あー! 朝鮮人が白い服ばっかり着てるから
色服着用かあー! 洗濯回数が多くて無駄だと。
そのあとにすぐ 水資源の節約!と書いてあるし。
確かに! うちの亡くなった義父は
よーく上から下まで白いのを着てたが
すぐ汚れるので洗濯ものがすぐいっぱいになったもんだった。
そのままにしておくと汚いし。
確かに洗濯の手間はかかるわな。
読んでも読んでも興味深い事実が出てきて
私はこういう資料を読むのが大好きです。
日韓関係史は引っかかる部分も多いけどさ。
タイムマシーンが欲しい! この時代に飛んで行きたい!自分の目で見てみたい!
と思うのでした。