夜の城壁を回る(高敞邑城)2012.4.
昨日の夜、家族でまた高敞邑城に行ったのですが
ひさしぶりに城壁を一周しました。
城壁の上を歩くコースと
城壁に沿って歩くコースがあるのですが
夜なので、下のコースを取りました。
一般的に 足の病気が治るとか言われてるのは
上を歩くコースのようです。
では!一周すれば足の病気が治るという城壁を持つ
ウチの町で膝の痛みに悩む老人が
劇的に少ないか?というと
全然そんな話は聞いたことがない!
ことは書いておきます。
足が丈夫になるってことは、あるでしょうね きっと。
城壁の足元にライトが設置されています。
ただ気をつけないといけないのが
このライトは午後9時に消灯!
なのであまり遅い時間に
回り始めると途中で真っ暗になります!
ど田舎の観光地には注意!
城壁に横付けされている石の階段を登っていく。
昼間は主役だったつつじは
かすんじゃった。
ある程度登ってから
振り返って
下を見下ろすと町の夜景が見える。
この二つの写真を見比べて見ましょう!
上のと下の石の積み方というか、石の形自体違うでしょう?
なんでこうなるかというと
上の石積みは崩れた部分を、
最近になって補修したところ。
下のは、もともと最初からあった石積みです。
上のはなんかレゴの大きさだけ合わせて
積んでいったって感じで
規格品!って雰囲気でしょう?
昔の石積みは大きさも形もばらばらの石を
バランスよーく積み上げていたんですね。
この石が根拠になって
城の築城年代が計算されています。
ウチの夫の意見では、
この城はもともと百済時代の城があったところだろうといいます。
それらしい形態があちこちに見えるそうです。
現在高敞郡の面の一つである
茂長という地域に
茂長邑城があります。
その当時、朝鮮の城と城の間は、
40里以上の距離をおかないのが普通だったそうですが
(16キロから20キロくらいまで)
全羅北道井邑市の笠岩面に隣接する
長城の笠岩山城と、茂長邑城の距離は
40里よりもかなり離れていました。
(韓国の10里は約4キロ)
そこでその中間地点に、城を作る必要があったため
この地域に築城されたのではないかといいます。
この高敞邑城は全羅道の住民たちが
力を合わせて築城したのですが
(済州島の名前もあります。
過去には済州島も全羅道に含まれていました)
これは全羅南道の霊光。
ここなんかはまだ、比較的近いところですね。
積み上げられた石に、地域名が掘り込まれているのが
その根拠です。
これも年々薄くなり、さっさと拓本をとって
記録調査をしっかりしないといけない大事な郷土史です。
去年うちの旦那さんが全羅北道に事業申請したのですが
通らなかったようですね。 残念。
これなんかは 全羅北道の任実 (イムシル)
チーズで有名な町ですね。
うちの旦那さんが
そこいらへんの竹の木をとって
ポイント講義をします
この石なんかは、おそらく当時の碑石とか
墓石を寺みたいなところから
もってきたもんだと思う と。
この石垣が崩れて、
この石に刻まれている字をまともに
みることが出来れば、
当時に関するいろんなことがわかるはずだと。
あなた、崩れて欲しいのね!
これなんかは、
多分寺とか、どこかのお堂からはずしてきた敷石
それも、この石と左の石はセット
それはこの出っ張ってる○型で分かる ということです。
ウチの子供たちも一人ずつ
ながーい竹を手にして歩く。
誰もいないから危なくないかと。
冬場は雪が深くてあまりこれなかったのですが
これからは、また度々これそうです。
うちは、ここをもうほとんど「我が家の庭」だと
半分決めていて、しかも郡のお金で管理してくれて
いつも綺麗!
だからウチの夫は訪れる観光客に
心のそこから
「(うちの庭に)いらっしゃいませ!」と
笑いかけては、ボランティア観光ガイドを
誰にいわれなくてもやっているのです。