南原の万人義塚2012.11.5
週末家族で、全羅北道の南原(ナモン)という町に
いってました。
我が家からだと高速
にのって一時間あまりというところです。
南原というと
「春香伝」 だったり
(有名なミスコンのミス春伝というのもあります)
”春香”っぽい人が選ばれるようです。
”清純”というか、”初々しい”というか。
ここの料理で全国的に有名なのは
チュオタン (ドジョウ鍋)だったりしますが
私の目的は
豊臣秀吉の朝鮮出兵関連の遺跡探索です。
第二次出兵の丁酉再乱で
南原は大変大きな被害を受けました。
日本からの兵士は5万
それに向う朝鮮と明の連合軍の兵力は5千
(城に逃げ込んだ村人たちを併せて一万名という話も)
1597年の8月南原城を攻めたのは
城の南門から宇喜多秀家
西門は小西行長
北門は島津義弘
東門は蜂須賀家政
南原城はほどなく陥落し
その勢いにのって日本軍は北上を続けたという
第二次出兵初期の日本軍の勝利に終わった戦争です。
朝鮮・明の連合軍の被害は甚大でした。
その霊を慰めるために建てられている
万人義塚
ここから南原の史跡めぐりを始めました。
色づいた銀杏が落ち始めています。
どっちかな?
看板に従って車を走らせる旦那さん
奥まで上がっていくと
お線香を捧げる場所がある。
芳名録を見ると、日本から来た方も。
でも夏以降には日本人の名前が見えないなあ。
さらに上がっていくと
大きなお墓が。
お参りして降りていく。
記念館があるので
入ってみる
ここの入り口に、この図があったのでびっくり。
なぜかというと、ここに来る前に読んでおいた本で見た
日本軍の南原攻略の軍図なのですが
現物は今も鹿児島の博物館にあるはず
なぜここに?
説明書きを読んでみると
沈寿官氏が仲介して
ここに現物そっくりの複写本が贈られることになったそうです。
朝鮮軍将軍の甲冑
これはきっと冬用だね と子供たちと言う
袖から毛皮が見える。
しかし、戦闘は8月だったはず
袖を通せただろうか??
南原城の模型があった
うちの旦那さんが横で文句を言ってる。
こんな平地に作った城で、
攻撃を持ちこたえられるわけがないだろう!と。
もともと朝鮮の城というのは
山城と平地の城がセットになって
危険時には山城に逃げ込んで闘ってきたはずなのに
まったくこの時代、危機意識が薄くなっちゃって!
こんなところで戦えるわけがないのに、、、とぶつぶつ。
南原にも山城はあるにはあるのですが。
南原城戦闘の日の日付がおかしい、、、、
日が違うよね、、 うん これ違う。
この大名の攻撃ラインもこれちょっとあれじゃない?
一体これって誰が作ったのか。
しかしこの記念館、職員が誰もいないわね、、、、
ご意見箱みたいなのもないし。
土曜の午前だってのに
観覧客もほとんどいないし、、、
あんまり関心もたれていないんじゃないの???
郡の観光課からも。
なんとなくそんな感じ。
うちの夫が
「あとで電話しておこう」
南原の東門は蜂須賀家政が攻撃したってことだけど
韓国語表記間違ってる
大名の名前が 「ハチス」 になってますよ~!!
これは”はちすか”と読むんです!!
(地元のことなのでつい興奮!)
しかし海を越えてこんなところまできたか
蜂須賀さんよ。
うちのご先祖様ももしかしてついてきてたかな?
登ってきた階段をおりて
次の目的地に向う。
「どうやっていくんですか?」
道は人に聞く!がお約束のうちの旦那さん
散歩途中らしい近所のお年寄りが
大変丁寧に教えてくれたのでした