2010年淑明女子大アジア女性研究所主催の
「移住女性生活体験記手記公募」で佳作をもらいました。
これは授賞式の様子。
ご家族やお友達と来てた方が多かったですね。
中にはお義母さんが代理で受け取りに来てた方もいらっしゃいました。
わたしは末っ子のスンギ君を同伴。
中国に行くとき彼だけつれていけなかったお詫びですかね。
以下がその文章です。
韓国で生活するようになって12年が経つ。
二十世紀の日本には韓流なんて言葉はなかった。
四国の徳島で生活していた私の周りには韓国をよく知ってる人はそういなかった。
夫との結婚を決めて、韓国人と結婚するとある友人に言った。
何人目かに伝え聞いた友人が「中国人と結婚するんだって。」と聞くので苦笑した覚えがある。
それくらいあの当時の日本人は韓国に関心も知識もなかった。
韓国生活を始めるまでの三年の恋愛期間に私は一通りの韓国語をマスターしていが、
そんなこと自慢にもならなかった。
今では「韓国語を喋れるなんて格好いい。」といわれたりするからこっちが驚く。
韓流の洗礼を受けて日本人の韓国人観はすごく変わった。
三人の子供を産んで育てて来た。
すべて韓国で出産し韓国で教育している。
子供が少し大きくなってから私は韓国の大学院で勉強して学位を取った。
大学で日本語を教える以外にも出来ることはいろいろやってみた。
ソウル生活は機会が多かったからかも知れない。
友達がたくさんできてそれは楽しいソウル生活だったが、
結婚十年目にして夫が故郷で暮らしたいと言い出した。
夫の田舎は全羅道だ。
私は夫と離れて暮すのはつまらないので、友達と仕事に別れを告げて、家族で田舎に引っ越した。
私の夫はかなり愉快ないい男である。誰かにあげてしまいたくはなかった。
私は今、覆分子で有名な高敞という町に住んでいる。
そして小学校の放課後教室で日本語の先生をしている。
どうせ長く高敞に住むつもりなら、ずっと残る人脈をつくりたいと思った。
だから小学校での日本語教師の話が来たとき承諾した。
小学校の放課後教室の先生はとても大変だとよく聞いていたが、
小学生達と関わりたいという期待をもって始めた。
そしてこの3月から小学校の教壇に立っている。
甘い期待に反して何とも様々な思いを味あわせてもらった。
小学生の日本語教育は大人を教えるのと全く違った困難があった。
まず教える以前になによりも生徒の管理だ。
最初は神妙に座って聞いていたはずが、
慣れてくると歩きまわったり、私語を始めて騒いだりした。
生徒同士で喧嘩が始まったこともある。
何しろ多感な年頃なので、授業中ずっと泣いているような子もいた。
行事やテストも多く、学校が終わったら塾に行く率が高いので
生徒たちはとても疲れて見えた。
私は私でこの状況の中で出来るかぎりのことをしてみたつもりだ。
結果としてこれがどうだったのかはまだ分からない。
学校から辞めてくれといわれない限りは続けるつもりだが、
もう最初にもっていた甘い期待はすぐに吹っ飛んだ。
私は毎日四苦八苦しながらも小学生たちと関わっている。
その中でいろんなことがあった。
一人で笑っているにはもったいないほど面白いこともあった。
嬉しいこともあった。家に帰ってきてもムカムカするほど腹の立つこともあった。
驚いたことならいくつもある。
授業態度の悪い男子生徒たちを横目でみていた優等生の男の子が
「先生、あいつらゴミだから放っといたらいいんだよ。」と言ったことに驚愕した。
同じクラスメートではないか。
それから将来結婚する人に要求する条件は何かと女の子達に答えてもらったこともある。
選択肢から選んでもらったところ、ほぼ全員が経済力を一位に上げたこともびっくりだった。
また、積極性に欠ける子が多いとも思った。
韓国人がかつて持っていた美点といわれる特徴を
徐々に子供たちが失いつつあるように見えてならなかった。
子供達の中の個人主義がとても強いように見えた。
友達を助けるとか、弱者に手を貸す姿を見ることは難しかった。
強い自己主張はただ自分に非がないことを声高に訴えるためと、
だれかの非を追求するためだけに使われているように見えた。
少なくとも10年前まで、日本人の第一の美徳は「人に迷惑をかけないこと。」
韓国人の美徳は「人間の情を大事にすること。」ではなかったかと思う。
数ある韓日比較論で何度もそう言われてきたはずだ。
消極的受動的な日本の国民性を表した言葉であり
韓国人の積極的主体的性格を表した言葉だ。
しかしこれからも果たしてそうだろうか。
わたしは韓国の子供たちの姿を教室で見ながら、
彼らの親の世代が持っていたはずの価値観が
崩壊しつつあるということを感じてならなかった。
「情のない人間」それはいつも韓国人が
日本人を馬鹿にするキーワードの一つだったはずだ。
人としての情がないなんてそれはもはや人間ではないと。
だから日本人は人間ではないのだと良く言われてきたはずだ。
しかし情がなければ人間でないとするなら、
韓国人の若い世代はもはや人間でなくなりつつあると表現しなければならなくなる。
私の接する生徒たち、彼らもすでにいわゆる「韓国人」ではないと思う。
強いて言えば変形韓国人、新人類型韓国人だ。
今世界では韓国に憧れ、韓国を慕い、韓国を探しにくる外国人がたくさんいる。
しかし現実の韓国人からは外国人たちが憧憬する韓国のなにかが失われつつある。
人間にとって大事なのは社会的位置や収入ではなくて、
人とのつながりとかその関係性の中での愛情なんだよと、
日本人の私が韓国人の子供たちに説教しているなんて何ともおかしなことである。
子供たちが家に帰って親に離したらいぶかしがられるだろう。
この現象は韓国人の価値観だけにとどまらない。
かつては韓国にあったものが、今では見られなくなってしまい、
いっそ外国にそのまま残っていることがあるのだ。
たとえば、私の住む高敞には高敞邑城、
別の言い方でモヤンソンと呼ばれている城がある。この城の入り口にある大門の柱はそれぞれ長さが違う。
長さが違う木に合わせてそれぞれ長さの違う石の台が敷かれている。
自然の美をそのまま利用しようとする考え方だ。
これは本来韓国の美意識であったはずだ。
しかしここ最近の韓国においては合理的美、手を加えた人工美を尊重する傾向にあるようだ。
自然のものをそのまま利用するような取り組みは現在では日本の方が盛んである。
山で拾ってきた木をそのまま椅子にしてみたり、
食卓に野の花を飾ってみたりするとわが家にいらっしゃる韓国人のお客さんは「日本らしい。」という。
これは元々韓国人がもっていた感性なのに。
不思議な文化交流だと思う。
一度韓国から出てしまったものが、
外国でそのまま残って本家よりも色濃くその色彩を残していたりする。
そして元々その文化を持っていたはずの人たちが
それを何かを通して再発見し、自国の文化を見直したりするのだ。
私も韓国にいる日本人というだけで、日本の象徴のようにみられることがある。
私の中に何か日本的なものを探そうとするのは、日帝時代に幼い時代を過ごした韓国のお年寄りの方々である。
日本人だというだけで郷愁の対象になってしまうのだ。
しかしその方たちが探す日本は私の中にはない。
申し訳ないが、私自身も1945年以前のの日本の香りというものを知らない。
1945年以降日本は一度それまで古来から継承されてきたものを手離したのだから。
韓国と日本のように単民族が一つの言語だけを使って生活している国は、
世界的にみて多くないはずだ。
しかしその単民族といわれる韓国に大量の外国人女性が結婚を理由に移住している。
その数は年々増えて、
おそらく地方の農村部では2.3年後の小学生の母親は
一気に外国人女性が占めることになるだろう。
韓国は一気に多民族社会へと変容しつつある過程なのだ。
私は国際結婚をすることになり、
自分が移住女性という立場になった人間だが、
韓国の歴史に目を向けるようになったのは最近のことだ。
私がここで生きていく上で、
韓国人という人たちを理解するには歴史の理解なくしてはあり得ないという当たり前のことにようやく気がついた。
歴史の理解を通して、現実の韓国人という人たちへの不可解が一つづつ溶けて行った。
古代においては韓半島も日本列島もともに、
移住民が行ったり来たりしていた痕跡が多数報告されていることを知った。
一見単民族に見える韓国や日本においても、多民族と交わらなかったということではない。
実は私達の血もとっくの昔に混じりあっているのだ。
韓国人とか日本人というくくりは後世において出来た概念だ。
韓国人の価値観がどうだとか、
日本人の性格はこうだという議論は歴史的には古いものではない。
今の時代、韓国人のここ何年かの価値観の揺らぎに加えて
外国からの移住者が増えていくことによって、
韓国は価値観の転換をせまられるだろう。
韓国のお年寄りは韓国からいわゆる
「韓国らしい」部分が消えていくのを嘆かれるだろう。
しかし歴史的にみたとき、「韓国らしい」というなにかでさえも
どこかの影響やなにかの流れを受けて形成されたものだ。
韓国の政治に儒教の影響が強いというイメージがある。
しかしその儒教でさえも中国から来たものだ。
私は韓国にオリジナルのものがないと言いたいのではない。
韓国から生まれた素晴らしい物もたくさんあり、私はそれを享受して来た。
ただ文化というのは交流によって発展し、
交流によって新たな土地に流れて行き、またそこで根付くものである。
だから韓国の方々に今の韓国の現状を受け入れ、
新たな展開を喜び希望をもって見つめてほしいのだ。
これは私の母国にも全く同じことが言える。
韓国の全羅道にビビンパプという料理がある。
言わずと知れたことだが、いろいろなナムルをご飯にのせてコチュジャンでかき混ぜて食べる料理である。
私はこのビビンパプを見るたびに韓国の行く道はこれではないのかと思う。
いろいろ雑多な材料が入っている。時には余り物のようなものも入る。
それほど上等じゃないものも混ざる。
しかしそれがコチュジャンという調味料を加えて混ざったとき、
ナムルを一つ一つ食べるよりもずっと美味しくなり、
それまでなかった新しい味まで出てくるのは食べたことのある人なら分かると思う。
私は外国人という立場で韓国に暮している。
母国ではない不便も確かにある。
しかし一旦は韓国を理解する努力をし、
韓国社会に解け合い混じり合うことによって、
ただ生まれた国にそのまま住んでいるだけでは出来なかった経験をたくさんしている。
私の人生に新しい味が生まれたのだ。
そしてもう一つ、私が韓国を愛し、韓国を理解しようとする動機は、夫に対する愛が根っこにあるようだ。
私がこの人を愛しているから、夫が私を愛してくれるから韓国を愛する動機が自然に生まれるのである。
話が個人的なところに戻っていくが、私は個人からしか何も始まらないのではないかと思っている。
現在韓国社会では多文化政策が盛んで移住女性をサポートしてくれる試みがいくつもある。
しかしこの政策と移住女性が結び付くには、やはりこの国を愛して、
この国の土となりたいという「移住女性の思い」こそが一番基本になるのではないかと思っている。
それを無視してはただの予算の垂れ流しに終わる。
心あってこそカタチが生きるのではないだろうか。
これからも私はここで出来ることならずっと死ぬまで「新しい味」を追求して行きたいと思っている。
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