なぜ白村江の戦いなのか
7世紀に韓半島で白村江の戦いという戦争があった。
これは中国の唐、韓半島の新羅、百済、そして当時斉明天皇と天智天皇の統治する大和朝廷が関わった国際戦争である。
7世紀にそんな国際的大事件があったということが以外と知られていない。
古代歴史ファンの方ならご存知のはずだ。
日本書紀に白村江の戦いのことは大きく記録されている。
しかし漠然と学校の歴史授業を聞いているだけでは、恐らく聞き流してしまう内容である。
なにしろ1300年以上も前の戦争であり、韓国でも日本でも歴史教科書に割かれた部分は少ない。
7世紀はじめの韓半島は北の高句麗、そして漢江流域から勢力を伸ばした百済、
南東部から勢力をもってきた新羅の三国が割拠するいわゆる韓国の三国時代であった。
それぞれが同盟関係にあるときもあれば、敵対関係にあるときもあった。
当時の中国大陸は隋から唐に移る時代であり、
領土を分かつ高句麗とは隋の時代から熾烈な争いが続いて来た。
白村江の戦いは唐の援助を受けた新羅と、日本からの援助を受けた百済の戦いであり、
高句麗は実質的に出兵していないが、
唐から新羅への軍事援助の規模は、
常に対高句麗戦に投入された軍事力に左右される。
その事情まで含めて考えると白村江の戦いは韓半島全土を巻き込んだ大戦争であった。
結果として新羅が勝利をおさめ、天皇の送った援軍とともに百済は大敗し、
百済の遺民は日本に亡命する。
そして韓半島は統一新羅時代を迎え、10世紀の終わりに高麗が新羅を滅ぼすまでその統一が続いた。
百済は破れたが、日本列島から送られた援軍の規模は巨大なものであり、
軍事力だけを見たときは決して百済に不利な戦いではなかった。
百済が勝利していれば、以後韓半島の覇者は百済になった可能性がある。
そうなれば百済に援軍を出すほどの親密な関係にあった大和朝廷の対外政策も
自ずと違ったものになっていただろう。
それほど重要な古代の大事件なのだが、
白村江の戦いについては韓日両国で様々な見解があり、
白村江の戦いの拠点となった城と白村江という川についてだけでも幾多の説がある。
私は韓国全羅北道扶安郡という場所で生まれた。
大学での専攻は歴史地理学だった。
学位取得後しばらくソウルで生活していたが、
現在は生まれ故郷の全羅北道に戻って生活している。
ここで2009年に白村江の戦い記念事業という社団法人を設立し、
白村江の戦いに関する情報を公開しながら様々な対外活動をしている。
扶安郡には白村江の戦いの拠点となった王城周留城であろうと言われる山城があり、
白村江であろうと推定される川が流れている。
私が扶安郡の出身だから、
ここが白村江の戦いの決戦場だったと主張しているのではない。
地理学の研究者であるという専門性と
現地の住人であるという利点を活用して冷静に考察した結果、白
村江の戦いの決戦場はここしかないだろうという結論に落ち着いただけだ。
これからも新しい発見や資料があれば柔軟に考察検討する構えだ。
観光客誘致や知名度向上のため歴史的事件と地元を結びつけることは私の仕事ではない。
私はこの地に1300年前4万人を超える人々が
日本列島から百済の援軍としてやってきたということ。
そしてその多くが帰国することができず、
韓国の海に散ったということ。
そして国を負われた百済の移民たちが海を越えて日本に移り住んだということを
歴史の事実として多くの方々に知って頂きたいと思っている。
白村江の戦いの前には援軍要請にきた百済の使いが
斉明天皇に100人余りの唐人の奴隷を捧げた記録が日本書紀にある。
また敗戦時に百済の遺民一万人以上が王と共に唐に送られた記録もある。
人も物も常に流れ行きかうものである。
一方向だけの交流というのはありえない。
また古代の交流というのは私たちの想像以上に活発で自由であった。
歴史の中で様々な物と人がお互いに影響を及ぼした結果として
現在の形になっているのだという当然のことをもう一度思い出してほしい。
遥か昔の話ではあるが確かに1300年前
韓半島と日本列島でそれほどの交流があったのである。
歴史の中であるときは友好的な贈り物として、
あるときは戦争時に略奪という形で、いつも人と物は世界を巡ってきたのだ。
私は1970年生まれの韓国人である。
私の受けた学校の歴史教育は反日色がとても強いものだった。
しかし個人的に歴史の勉強をしていくうちに、
韓日交流史の中で韓日が反目した時期というのは
そう長くもなく多くもないことが判明した。
20世紀初頭からの日帝40年がいまだに尾を引いて、
韓国はずっと日本に虐げられているようなイメージがあるが実際はそうではない。
どちらかというと近い国、親しい国といっても過言ではないのだ。
韓半島の朝廷が常に中国の王朝の顔色を伺って
外交政策を決定する傾向があったとはいえ、
日本とは独自に交流を続けてきた。
その最も密なものがまさに663年白村江の戦いである。
考えて見てほしい。一体7世紀の日本にどれだけの人口と経済力があって
4万人の大軍を海外派遣できるのだろうか。
もし現在の日本で海外にそれだけの軍隊を送るとしても簡単なことではない。
なぜ斉明天皇は百済の使者の願いを受け入れたのか。
彼らを取り巻く状況はどういったものであったのか。
なぜ百済軍が惨敗することになったのか白村江の戦いに関する謎はつきない。
私は現地在住の地理学者としての見地を立ち位置として今後も白村江の戦いについて考察するつもりだ。
かつ、この古代の大戦争の事実を世の中に広めて行きたい思う。
白村江の戦いという古代の国際戦争を知ったうえで、
どうか韓日の関係について共に考えていただきたい。
あくまでもより希望的な未来を創造し子供たちに託すためにである。
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