えみこのひとりごと(2010年~)

「五体不満足」に関する思い出(2011.6)

백강 문정사랑 2013. 9. 3. 14:47

 私は以前、韓国の大学院で勉強していました。

 

  そこでたくさんの韓国人と知り合いました。


 

  当時の同窓とはいまでもたまにやりとりしています。



 

 私の卒業した学科は現在では「東洋哲学科」という名称を持っていますが、当時は、「易理学科」でした。


 

 私はそこの第一期生です。 


 

 専門の勉強をするというより


 

 「韓国語の勉強だと思って行け」と、訳分からぬまま、夫に押し込まれた学科でした。



 

 ただただ、ついていくことしか出来なかったという感じですが、


 

 「神経を集中しなければついていけない!」という


 

 私の必死が功を奏したのか、


 

 課題などは私が一番提出率がよかったようです。



 

 教授方の覚えもよかったようで、


 

 私は教授の助手の職を任命され、大学への書類提出だの会計決算を任されました。


 

 もちろんそんなことは出来ないからお断りしたいと主張したのですが、


 

 「全部フォローするから」というので、恐る恐るやっていました。


 

 「勉強した」というより、「韓国の社会システムの大まかな流れを肌で感じる」ための


 

 大学院時代だったように思います。


 

 

  

  「易理学科」って何?と よく人に聞かれました。 


 

 韓国でも国立大学の中には初めて出来た学科でした。


 

 韓国はキリスト教の力が強いので、


 

 易とか占いとか風水とかを


 

 大学の科目とすることに抵抗を感じる教授達が多数いて、


 

 学科設立まで本当に大変だったと


 

 主任教授はよくおっしゃってました。



 

 授業の割合を多く占めたのが、「易経」でした。


 

 あと「論語」 それから「風水」に「四柱推命」に「奇門(方位学的占いの一種」ですね。


 

 授業内容は期を重ねるごとに、変遷していったと思いますが、


 

 まあ、ここの学生というのが、実にユニークな方たちばかりでした。



 

 学部からそのままあがってきたような年齢の方っていなかったです。

 

 一番若いのが30過ぎくらいで、50代60代の方もいました。



 

 その中で知り合った方に「チャン・ソンギュ」さんという40代の男性がいました。


 

 かれはもともとソウルの名門大学を卒業して、


 

 大きな出版社で編集長として仕事をし、その後アメリカで漢方医をしていて


 

 何年か前に韓国に戻ってきたインテリでした。


 

 彼の編集者時代の一番大きな仕事は、「五体不満足」を韓国にもってきたことだと思います。


 

 


 

 彼は私の一年後輩にあたります。


 

 私は後に、博士課程は「易理学科」ではなくて、「地理学科」の方に


 

 行ったのですが、彼が同じコースをたどった縁もあり、


 

 そのため指導教授も同じ方ということになり、


 

 何年もずっと夫婦ぐるみで仲良く付き合ってきた人でした。




 

 

 去年の春、久しぶりに我が家に遊びに来てくれて、それは楽しく遊んだのですが


 

 その次の日、彼は登山の帰り、心筋梗塞で亡くなりました。



 

 わたしにとっては韓国の兄のような存在だった彼が、


 

 この世からいなくなったという喪失感に耐えられず、


 

 去年の新緑の季節は何を見ても泣いてばかりいました。



 

 いまだに、彼から来たメールや携帯のメッセージすら消去することが出来ませんでした。


 

 それを消したら彼がこの世にいた痕跡すらなくなってしまうようで、怖かったのです。



 

 でも先週、ようやく「もう、大丈夫だ」と思えるようになったので


 

 彼のメールなどをすべて消去し、彼に感謝し冥福を祈り、


 

 そして一つの文章を書いて新聞のコラム欄に出しました。


 

 書くことの大好きな私ですが、今まで形にできなかった辛くて痛い思い出です。




 

 読んでくださり、シェアしてくださるとありがたいです。



 

 今日の天気と同じく、ちょっと湿っぽい話になってしまいましたが、


 

 一年漬けといて発酵させた醸造モノなので、


 

 有毒成分は相当分解されたということでお許しを。


 

 

 これが、私の「五体不満足」に関する思い出です。


 

  
ソウルの教育ママ

 

    



 

   

 五体不満足にまつわる思い出




ーチャン・ソンギュという編集者ー



日本で一番有名な身体障害者は何と言っても「乙武洋匡」さんだろう。


1998年出版の「五体不満足」は日本の大ベストセラーになり、

韓国でも翻訳出版されヒットした。



これを韓国に持ち込んだのは、チャン・ソンギュという編集者だ。


彼は日本出張の折、大きな書店で五体不満足の表紙を見て強い衝撃をうけた。


「これは絶対韓国でもいける!」

そう確信したチャン氏はすぐさま版権交渉にのりだし成功した。


結果として、日本からの翻訳モノ、障害者モノという販売が難しいジャンルで

未曾有の大成功を納めた。


 その後五体不満足は「読まなければいけない本」の扱いをうけ、

韓国の小学校の教科書にも掲載され紹介された程である。



 実はこのチャン氏は私の大学院時代の一年後輩である。

修士課程も博士課程も一足先に私が入学した。



 その当時、忠清南道にいた私たちは、夫婦単位で良く遊び、

 仲よく付き合っていた。


 全員が修士か博士課程の学生だった。

 一番先に、博士号を取得したのが、私の夫だったか。



 ー五体不満足出版にまつわるエピソードー




去年の4月の終わり頃だった。

チャンさん夫婦が高敞を訪れてくれた。


 チャンさんはその前の年に大変な苦労をして博士学位を取得していた。

学位取得にまつわる苦労話や、編集者時代の話を披露してくれた。


特に「五体不満足」出版の詳しい話を沢山聞いた。


 出版当時はさっぱり売れなかった話。


 何とか人の目に留めてもらおうと、必至でコピーを幾つも考えて、

 毎週毎週違うコピーを作り、自費で新聞に広告を打っていた話。


 いきなり火がついたように売れ出して、出版社の電話が鳴りやまず、

 本の在庫が足りなくて発送もできない。

 しょうがないのでシャッターを下ろしてみんなで飲みに行った話。


 来韓した乙武氏を金浦空港に迎えにいったものの、

 予想してなかったほど沢山の報道陣が詰め掛け大騒ぎになってしまった話。


 お酒の勢いも手伝って、チャンさんはその晩、なぜだか特に饒舌だった。

 晩の2時まで語り尽くして、チャンさん夫婦は帰っていった。


 


 ー突然の死ー



その次の日だった。


 夕方家族で高敞邑城を散歩していた時、夫の携帯が鳴った。

 チャンさんの奥さんからだった。



 夫の顔色がさっと変わった。


 「チャンさんが心筋梗塞で急死したって。」


 

 次の日、葬祭場に向かった。


 未亡人は力が抜けたような顔付きで、

 それでも気丈に弔問客を迎えていた。



 その横で、残された二人の娘たちは友人に囲まれて泣きじゃくっていた。



 葬祭場を後にし、高敞の家についてすぐ乙武洋匡氏に連絡を取った。


 と言っても私が個人的に知っている筈がない。


 彼の所属事務所、出版社など思いつく限りのところに電話をかけ、

 メールを送り、何とか取り次いでもらうようにお願いした。



 彼のお嬢さんたちは、編集者時代のチャン氏を知らない。

これから父親なしで生きていく娘さんたちに、

 お父さんの偉業を証明してあげたかった。



  だから乙武氏に葬式に弔花を送ってもらうか、

  弔電を送ってもらえたらとお願いした。

 当然、韓国での五体不満足出版にチャン氏が尋常でない努力をしたという

 故人から聞いたばかりの話を添えて。



  結果、葬式の日は過ぎてしまったが、

 乙武氏からチャン氏の家族にお悔やみのメッセージを頂いた。 


 


 ー 乙武氏からのメッセージー



『五体不満足』のような本が、愛すべき隣国である韓国でも広く読まれ、

多くの方にそのメッセージが伝えられたことは、私にとっても大きなよろこびです。


 その『五体不満足』韓国語版の出版に

 ご尽力いただいた張様のあまりに早過ぎる死に驚くとともに、

 心から哀悼の意を捧げます。


 突然のことに、ご家族様のご落胆もいかばかりかと存じます。

  どうぞご自愛くださいませ。心よりご冥福をお祈りいたします。


 


 ー悔いのない生をー



 私はメッセージを韓国語に翻訳して未亡人に送った。


 未亡人からは心のこもった感謝の辞が送られてきた。


 あれから一年、彼が亡くなった季節が過ぎた。


 「障害は不便です。だけど不幸ではありません。」


 これは五体不満足の有名な日本語コピーである。



 チャン氏が考えた韓国版のコピーは


 「身体は不満足、でも人生は大満足」


 本のエッセンスを一行で表した素晴らしいコピーだ。

 日本版コピーに勝るとも劣らない。


 彼はこの本を数えきれないほど読んだと言っていた。




 この本の裏表紙には、こう刻まれている。


 「どんな試練も幸福のきっかけ。不可能はない!」


 私はこれが彼のメッセージだと思い、

 もういつまでもいつまでも悲しまないことを心に決めて、

 今日も笑って生きようと思っているのである。



 そしてまた、私の今の仕事が

 いつ最後の仕事になるかもしれないと切実に感じた。

 今の仕事が子供達への遺言になるかもしれない。

 そんなことはないと、だれが言えるだろうか?


 だからいつも目の前の仕事に誇りを持って取り組まないといけないのだと。

  私の友人はそれを教えてこの世を去って行ったのだから。