えみこです。
今週新聞のコラムに載る文章を書いて、旦那に韓国語の校正をいれてもらいました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵をテーマにした文でした。
戦闘内容の記載部分に夫の補足がたくさん入ったので
「これじゃ文章のバランスが悪い!削って軽くしようよ!」
と抗ったのですが。
「コチャンの人が見るんだから
コチャンのこととか地元のことはたくさん入れたほうがいいだろう。
それから最後の結論イマひとつだから、あれ削ればいいじゃん」
と軽くいう。
「なにー 結論を削れだとー!!
その結論に到達したくて中間が流れてるのに、
文章の流れも読まずになにが削れだ!
長ったらしい歴史解釈こそ削る!
私は別に、歴史講釈をすることで、人に賢いと思ってもらいたくてこんな文書いてるんじゃないんだから。
あくまでもこの歴史事件が在韓日本人である私の心にどう響いたかったことが文章の主題なのよ。
歴史の本読みたいひとは、勝手に読めばそれくらいのことわかるでしょう。
この長ったらしいつらつらした補足削るわっ。」
「削るな! 馬鹿にみえるじゃないか」
「なにー馬鹿だとー!!どっちが馬鹿だ!!」
ととても夫婦とは思えないやりとりをして
押し合いへしあいしながら、文章が完成していきました。
そういう目で見るとあちこちにほころびが見えると思いますが。
私と夫がこういういい争いをしていると、
人は 「ずいぶん仲のいいお友達なんですね」 という。
「夫婦ですよ」 というと
「ええっ!夫婦なんですか? 夫婦の会話には見えませんでした、
というか夫婦ってそんなに引っ付いてずっと熱くしゃべってないですよ普通」 と言われた。
産後に子供の顔を見に来た夫としゃべっていたときも
看護婦さんが私に
「ご主人はまだこないのに、男性のお友達のほうが先に来たんですね。」
「夫ですが」
「えっ!ご主人だったの?夫婦が会話しているようには見えないものだったから!」
だそうである。
こんな風に、夫とやりあいながら、最後の原稿チェックをする。
夫は私の書く文章の形態はあまり好きではない。感傷的過ぎるそうだ。
「もっと学術的な内容を!」
とかうるさくいうのでうっとおしい、、、、
「なにが学術、そんなんいらんわ!!勝手に言ってろ」
と押し返して、入れないときもあるし、今回のように侵入を許すこともある。
でも私の書いた文章の中で、評判がいいのは、学術内容が多いものより
あくまでも「こころ」とか「きもち」に焦点を絞った文なんだけどなあ。
読者が韓国人であったとしても。 (えみこ)
今週のコラム記事
ー韓日交流史負の面に学ぶことー
韓国人で豊臣秀吉の朝鮮出兵を知らない人はいないと思う。しかし自分の住む地域でその当時何があったという具体的な内容までは意外と知られていない。ほぼ7年秀吉の命を受けた軍は韓半島津々浦々まで戦線を伸ばし、韓半島に甚大な被害をもたらした。影響を受けなった地域のほうが少ないはずだ。 私は韓国に住む以上、「日帝時代」と「朝鮮征伐」に関しては、勉強しておいたほうが良いと思い、関連文献を集めている。
現在は「豊臣秀吉の朝鮮征」という本を読んでいるが、その中に全羅北道地域の地名がよく出てくるのに驚いた。第一次出兵のときよりも、第二次出兵時、この全羅北道に多くの日本軍が押し寄せた。また第一次出兵とは違い、第二次出兵における日本の旗色は非常に悪かった。しかし朝鮮は名将と呼ばれた李舜臣を罷免し、元均を水軍の総司令に用いるという失策をおかした。1597年7月15日、元均率いる朝鮮水軍は漆川梁海戰で日本軍に大敗した。この時、島津の軍は1597年8月に南原、任実、全州を通って忠南扶余にまで攻め上がった。しかし再び、三軍水軍統制使として李舜臣が登用された後は、8月27日の於蘭浦の戦いにおいて日本軍は破れ、押し戻されて全羅道地域に退却してきた。そのルートは舒川を通って金提、そして井邑である。井邑では各地の武将が集まっての軍議がもたれた。その後日本軍は長城を通って南下するという道を選んだ。西海岸沿いの高敞には寄らずに過ぎていったようだ。夫からの解説によると、第二次出兵当時、高敞でも文希凱という人物による抗戦があったということが記録として湖南節義錄という文書に残っているそうだ。最後まで戦って負傷したととも言われているし、城を棄てて逃げたことで罷免されたともいわれているので、どちらが本当のことかは分からないが、ともかく私の持っている資料には高敞のことはでてこない。
朝鮮出兵に出てくるこの身近な地名だけでも驚きなのに、なんとその9月の井邑軍議には私の日本の故郷徳島出身の武将、蜂須賀家政まで混じっていた。この蜂須賀家政は第一次出兵のときから約7千人の兵を連れて参戦している。徳島には「阿波踊り」という祭りがある。祭りの期間には、徳島に約200万名以上の観光客が押し寄せるほどに有名である。この「阿波踊り」の始まりは、城の完成祝いに無礼講として蜂須賀家政が「好きに踊れ、無礼講じゃ」といったのが始まりだという言い伝えがある。そういう話でしか聞いたことがなかった故郷の殿様が、この全羅北道まで出兵していたとは驚いた。人には言えないような場所で、自分の学校の校長先生にばったり出会ってしまったような気分である。資料を探りながらそんな個人的な感傷に浸りもした。
この朝鮮出兵の兵隊の数は日本列島からは20万人以上である。一万人規模で派兵した加藤清正や鍋島直茂などがいるが、清正の兵の45%と直茂の兵の35%は第一次出兵において韓半島に散った。日本軍の兵として出兵しながらも、朝鮮側に寝返った武将も出た。慶尚道の沙耶可(金忠善)が特に有名だ。沙耶可の十四代目の子孫である金在徳氏は沙耶可の子孫であることを誇りにし、その素性をはっきりと語っている。日本に連れて行かれた捕虜のその後も様々である。朱子学の素養があるため取り立てられて高位に上った人間もいれば、日本の僧侶になった捕虜もいる。そしてまた、農作業に酷使され一生を終えた捕虜もいるのが事実である。
侵略戦争という望ましくない形ではあったが、この期間における韓日の交流はすさまじいものがあった。こうして韓国で生きている日本人として、この秀吉の朝鮮征伐や日帝時代に関しては、どうしても口が重くなり、気も重くなる。どちらも韓半島の住民が望まない形での強制的な国際交流であったから。しかしそうであるからこそ、これに蓋をして見ないふりをするのではなく、きちんと歴史を見つめたいと思うのである。一体何故そうなってしまったのか。他に方法は無かったのか。将来的に例えば、こうした事態が起こったとき、私たちはどうすればいいのか。朝鮮征伐から400年、日帝時代の終了から60年が過ぎた。この先の未来が子供たちにとっていいものであるように誰もが願っている。その願いを実現するため、実際に私たちが今後どういう行動をとるべきなのか歴史から学ぶことは多い。私たちはより良い未来を創造するために歴史に学び、歴史を振り返るのだと思う。韓国と日本が直接ぶつかった歴史、「朝鮮出兵」と 「日帝時代」にはそのヒントがたくさん詰まっているのである。
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