韓国文化関連

高敞金氏一家と朝鮮資本主義の植民地起源(2)2012.3.8

백강 문정사랑 2013. 9. 16. 13:37

高敞金氏一家と朝鮮資本主義の植民地起源



 

簡単な内容説明には入ります。

  


 

   1910年 朝鮮は日本に併合された。


 

 そのときから朝鮮のすべてのものは日本の管理下に入る。

 

 ソウルには朝鮮総督腑が置かれ、


 

  歴代の陸軍高官が総督の位置に付いた。

    


 

初代総督 寺内正毅


   当初日本政府にとっての『植民地朝鮮」は

  

  食料の供給地であり、日本製品の市場でしかなかった。


 

  朝鮮に事業を起こすことで、

 

 その企業が日本企業の競争相手になることを懸念し

 

 朝鮮での起業は「会社法」という法によっての規制をうけていた。



 

 その状況が一変するきっかけになった一つの事件が


 

 1919年独立万歳運動

 

 この独立運動が朝鮮総督府に与えた衝撃は大きかった。


 

 全国、ほぼすべての階級の朝鮮人たちが「反日」で一つになったからだ。


 

 それも一部の地方ではなく、全国規模だったことも見逃せない。


 

  

  朝鮮総督府は朝鮮統治政策の転換を迫られる。


 

 

  以降、朝鮮の富裕層に対する緩和政策が取られる。


 

  


 

  この1919年を境として、朝鮮総督府の朝鮮統治は


 

  武断政治から文化政治へと方向転換されたといわれる。





 

  しかしこれは朝鮮の富裕層と朝鮮総督府の結合を強めることで


 

  朝鮮人の階層分断を狙った政策であると言われている。




 

  

この写真は


 第三代 第五代朝鮮総督府総督 斉藤実


 独立運動後に朝鮮総督府総督に就任した人物です。


 

   (なんと 高敞高校の創立式典に参加してました。 記録に残っててビックリ!)

 また、日本が第一次世界大戦の勝利国となったことから


 

 両国をとりまく状況が変化した。





 

 債務国であった日本は債権国となり剰余資本が生まれた。


 

 その資本の投下先を探す必要が生まれた。




 

 また戦勝による領土拡大で日本製品の市場が広まり


 

  日本製品の需要が高まった。





 

また、当時の日本ではすでに


 

 『労働者保護」が叫ばれ始めていた。


 

 資本家に有利な非人道的な労働環境の改が求められていたが

 

 朝鮮にはその規制もなかった。


 

 そのため朝鮮は資本家にとっては非常に有利で魅力的な開拓地と映った。





 

 そういう背景で、1920年朝鮮でも日本と同じ

「会社登録制」が適用されるようになり


 

 朝鮮での起業が許可される土壌が整った。





 

 その会社登録制施行以前に


 

 会社登録が許可されていたのが


 

 1919年10月創立の京紡である。 

   (京城紡績株式会社)




 

仁村  金性洙





 

  創立者は、全羅北道高敞出身の金性洙(仁村)