韓国文化関連

高敞金氏一家と朝鮮資本主義の植民地起源(3)

백강 문정사랑 2013. 9. 16. 13:38

高敞金氏一家と朝鮮資本主義の植民地起源

 


 高敞の 金性洙と 常に一緒に語られるのが


 

     おなじく高敞の 金秊洙  


      二人は兄弟。



 


 

     金秊洙


 高敞の地主の子弟であった二人は


 

 日本で学問を修める。


 

 これは当時の朝鮮有産階級の子弟の多くがたどったルート。




 

  

金性洙は日本で6年 (早稲田大学で政治経済を)


 

金秊洙の日本留学は10年。


 

  (京都帝国大学で経済学)


 

  二人の思春期からの人格形成に日本での見聞が


 

 大きな影響を与えたことは、言うまでもない。



 

  朝鮮に帰国した金性洙がまず手がけたのは教育事業。


 

  その学校の教師として招聘したのが


 

 同じく日本留学で知り合った 李康賢


 

    


 

    李康賢 


 

  彼こそが金性洙に工業への着手を呼びかけたとみられている。


 

   日本の工業高校で学んだ彼は


 

   後に京紡の主任技術者となっている。

   


 1920年総督府の許可がおり、


  数年前に買収した大田の工場での稼動が始まる。



 

 しかし当時の朝鮮には工業化の条件がまだまだ整っておらず


 

  京紡の経営は困難を極めた。



 

 まず紡績の設備からして


 

 すべてを日本の技術に頼らざるを得なかった。


 

  トヨタの初期の姿は織機製造である。


 

   京紡は豊田から細かな部品の一つ一つまでを輸入している。



 

  技術者の養成もおなじことだった。

 

  技術を学ばせるために、朝鮮から日本に派遣し学ばせた。


 

  

 また、工業製品の売買に関しても、


 

  京紡は日本の商社に販売を頼らざるを得なかった。


 

  朝鮮内はすでに日本製品の市場であったため


 

  朝鮮製品を朝鮮で販売するということが簡単なことではなかった。



 

 また技師であり会社の重要責任者であった李康賢の投機失敗で


 

 初期の京紡は運営費用をほとんどなくしてしまうなどの


 

 数々の困難にみまわれている。



 

  京紡が会社としての利益を上げることができたのは1925年以降のことである。


 

 それでは、その期間、京紡を支えてきたものはなんであったのか?