韓国文化関連

高敞金氏一家と朝鮮資本主義の植民地起源(4)2012.3.8

백강 문정사랑 2013. 9. 16. 13:40

高敞金氏一家と朝鮮資本主義の植民地起源


では、京紡の利益が上がらない期間


 会社を存続させられた理由はなんだったのか。


 まず


 1) 株式資本


  朝鮮総督府から出た規定で、


  会社の公称資本は100萬円という取り決めがあった。


  しかし1919年第一回の株主募集では


  その4分の一の金額しか京紡は埋めることが出来なかった。



  引き続き株主の募集があったものの、この100万円を集めるのに


  ほぼ14年が掛かっている。


  1930年後半以降は株式売買は順調に行われ


  資金調達に苦労することはなくなる。


  また、この株主のなかに、日本人投資家の割合が多い。


 第一回の株主総会の名簿にも日本人株主の名前の記録がある。


  1945年日本人株主の数は全体の13.6%であった。



 2) 補助金


   朝鮮企業家の会社に日本からの会社補助金を給付するかどうかは

  

   日本国内でも意見の分かれるところであったが


   朝鮮を積極的に日本の工業生産地にするという方向転換と


   朝鮮にも日本と同じ権利をという朝鮮世論の流れから


   1924年から京紡にも政府補助金が流入した。


    

   京紡が株主に配当をようやくだせるようになったのは


   1927年以降のことであるが


   それまでの期間


   政府の補助金なしではおそらく京紡は


   存続できなかったであろうと予想される。



  3)銀行融資


   京紡は、朝鮮殖産銀行から継続した融資を長期間受けている。


    1929年の小額融資を皮切りに

  

    1932年 35年 36年 37年 


    額も非常に大きくなり

 

   1945年の時点で


   京紡に朝鮮殖産銀行から受けた融資額はすでに資本金の二倍に膨らんでいた。


    (1945年には京紡の資本金自体が最初の100萬円から1000萬円にまでなっていた)


  では?

 

 

 京紡に多額の融資を許可した

 

「朝鮮殖産銀行」とは


  どういった銀行だったのか。




 朝鮮が日本の植民地になったことで


 当然『金融」も朝鮮総督府の管理下におかれた。


 朝鮮には「朝鮮銀行」と「朝鮮殖産銀行」がつくられた。


 

  当初、朝鮮総督府の朝鮮政策が農業中心に回っている時代は

 

 銀行の役割もそれに付随したものだったが、


 朝鮮総督府の統治政策転換により


 朝鮮の工業化が進むにつれ、両銀行の関わる範囲も広くなり


 のちに朝鮮殖産銀行は殖産財閥と呼ばれるほどの規模で


  朝鮮の経済に深いかかわりを持つようになる銀行である。




  その朝鮮殖産銀行と京紡を結びつけたのは誰だったのか?


   それはこの人物。  朴泳孝


  


   私が韓国のセミナーでこの人の名前を出しても


   たいした説明は要らない。


  なぜならこの人物は韓国の教科書にもでてくる有名人だ。


  おそらく教科書にはもう少し若い時代の写真が載っている。



  韓国史の中で一体何のために有名な人物かというと


  1884年の甲申政変


   日本の明治維新を手本に


  伝統的朝鮮国家を改革しようとしたが失敗したという事件。


    朴泳孝この事件の中心人物


  

  政変失敗後日本に亡命、1894年に帰国し


   日本の支援を受けて作られた甲午改革内閣に入閣する。



 1910年の朝鮮併合後


  婚姻を通じて朝鮮王族の一員となっていた彼は


   侯爵の位を受け、日本の貴族院議員となる。


  

   大体はこの辺で韓国歴史上朴泳孝の記述は終わる


  しかし1910年には彼はまだ48歳。


  その後の人生は何をしていたのかというと



  実はこの朴泳孝京紡の初代社長に就任し


  その後10年以上その位置にあった。



 また同時にこの朴泳孝朝鮮殖産銀行の設立当初からの


 取締役であり、その後は顧問となっている。



   つまり京紡に流れる膨大な融資のパイプを作ったのは


   この朴泳孝 だった。

   

    


   京紡が朝鮮殖産銀行から借り入れた融資の利率は


   当初は高率だったものの、次第に低下していく。


  借り入れ期間などの借り入れ条件も緩和されていく。


  京紡は朝鮮殖産銀行にとっての優良大口顧客となっていく。



   またある時期から京紡の株主の名前に


  殖産銀行の上層部の人物


    名前が加わるようになり


  その反対に、金性洙は


  殖産銀行関連の子会社の大株主となっている。


  

   朝鮮総督府と朝鮮人実業家の、複雑に絡み合った関係が浮かぶ。



   つまり植民地時代に全盛を誇った京紡は、


   朝鮮総督府人脈と企業のつながりにより


   殖産銀行の勢力圏内に安住の地を得て開花した企業であるといえる。



  京紡は独立した企業でありながらも


  ほぼ「殖産王国」の一部であったということは


  京紡は日本という国家の一部として組み入れられていたのである。



  これは植民地下の企業が構造的にもつジレンマである。



 すべてが統制の中にある以上、企業活動でさえも


  本国の利益になる方向にしか向かうことが出来ない。


  

  特に朝鮮の工業化を緩和した目的からして


  おおもとは「日本国の利益」である。


 

  その後、日中戦争開戦により、また太平洋戦争の激化により


  京紡はますます資金を蓄えていく。


   戦争中はほとんどの物資が『配給制」となるが

 

  その「配給制」ですら、朝鮮総督府との深いつながりを持つ企業にとっては



   朝鮮人資本家と朝鮮総督府の結びつきはますます深まっていく。


  



 また満州国設立後、 京紡は満州に工場を建設する。


  そのためより多くの資金が必要となり


   さらに朝鮮殖産銀行からの融資をうけるという繰り返しで


 両者の関係は抜き差しならぬものとなっていく。



  この時期京紡は大きく成長する。


  1945年に至るころには、京紡は単なる紡績工場ではなく


  国をまたいで工場を有する総合国際紡績メーカーとなった。



    金性洙と金秊洙が手がけ、後世に残したものは企業だけではなく


  「東亜日報」という新聞社や


  「高麗大学」という名門私立大学もある。


  企業活動だけではなく、文化活動も手がけたのだ。



  しかし彼らは時に「親日派」と呼ばれ糾弾される。


  今にのこる大企業を創設した功労者でありながら


  日帝時代に財をなし基盤をつくったということで


  後ろ指を差される


  (実際、金性洙は朝鮮の男子を日本の戦争に送り出すための


  宣伝文を残してはいる。)



   結論として


  

  植民地時代において、植民地統治国家と植民地資本家の関係というのは


  「国家権力と国家による統制」という単純な図式では語りつくせない。


  植民地の事業家が植民地政府に従属したというよりも


  はじめから統治部のシステムの中に


 構造的に入り込むようになっていたといったほうが


  適当だ。


  


  日帝時代における朝鮮の企業と日本の関係も同じことだ。

 

  企業の成長と事業規模の拡大に伴い


  企業と国家の関係の境目が曖昧になっていったのである



  統治国家と植民地資本家の関係が


 一つの経済システムの中で共同体を形成したともいえるケースだ。



  この植民地時代の状況を考慮なしに


  植民地時代の資本家に対する判断を

下すことは全く無意味であるといえる。




 という内容です。


 ここまでお付き合いくださいました方ありがとうございます。



 ね、堅い話でしょう。


 でもこれはアナウンスする価値のある話だと思ったので


  発表しました。



 これを地元の人たちが一体どう受け止めるのかが


 私も怖かったのですが


  一番偉い人が(とみなされているらしい方)


  立ち上がってマイクをもってえらく褒めてくれましたので


   ちょっとホッとしました。


   「あー良かった! 何にも知らんくせにー!!この無知オンナが!」


   とか言われたらどうしようかと思ってましたから。


   

   2月に発表したのですが、来月編集して新聞にも掲載されます。