こんなこと、あんなこと

そういう見方もあってもいい2012.7.25

백강 문정사랑 2013. 9. 26. 09:45

      日本の歴史研究家

 

  関氏が書いている「藤原氏」関係の記事を読んで


 うんうん、ふむふむ、なるほどなあ、、、



  関氏が書いている


 『何故、私はこんなにも藤原を悪く言うのか?」


 の解答、


 または水木しげる氏の、「出雲の青年の霊が」


  (正直ですね∑(゚Д゚))



 とても学術論文には載せられない内容ですが


 人がなにかに突き動かされて


 一つの作品を完成させてしまう情熱の理由として


  「よくわからないけど、


  どうしてもしないといけないと思う」


  はとても説得力があります。



  うちの旦那さんの「百済魂」も


  おんなじです。


  あんまり「スピなこと」を書かないようにしてたのですが


  まあ、いいか。と書いてしまうと


  

   うちの旦那が「百済」のことを調べて

  

   「百済」のことを現代に示し続けているのも


   やっぱりある時期、


   そういうきっかけがあったからです。



   その結果、心の中の


   なぜかこれはどうしても


  やらないといけないような気がする


    という気持ちを強く感じ


   と頼るもののないのに


   自分の心の中の声に従って


   なにかを始めてしまった人です。


  

    アリランテレビという韓国の放送局があります。


   これは韓国文化を世界に向けて発信する放送局です。




   今回、「百済文化特集」をすることになったそうで


    先日うちの旦那さんに連絡が来ました。


    『案内してほしい」と



    撮影はもう少し先ですが


   今日、プロデューサーがソウルから打ち合わせに来ます。



    うちの旦那さんは


    「百済」を現代に説明しようとしている人です。


    プロジェクトがたって研究費をくれる人もいないのに


    カメラとメジャーをもって、メモ帳片手に


    各地の遺跡に出没しています。



  

   


   こうして「百済の正当性」を語りたい人がいる一方、


   関さんのような人からは、


    「百済の非道」が溢れてくる。


   千年たっても、百済に踏みにじられた


    悔しさがこみ上げてくる


   




   これは関心のない人たちから見たら


   あんたたち1000年以上も前のことを


   いまさら何いってんの??


   と不思議がられる光景でしょう。 きっと。





    私は最近、韓国人の旦那と


   ひどい夫婦喧嘩をしたのですが


   そのとき夫が何度も何度も繰り返したことばがあります。



   「自分に合わせて欲しい。


    自分の腑に落ちるまで待って欲しい。


   そうしてくれたら自分がすべて責任をとるから。



   なんですよ。


   つまり、その都度その都度、話し合いをしたり


   相手の顔色をみたり、


  その人の気持ちを量って微調整したりすることは


   あまり得意ではないけれど


   すべての権限を自分に与えてくれたら

 

   最後まで責任はとるから


    だから黙ってみていてほしい



  という主張です。


 



   何かが進行する過程で


   相談がなかったり、話し合う姿勢がなかったり


   そういうことに、横でいて薄く傷ついて


   「あなたはひどい!」と叫びたくなり


   横にいることも辛くなることがあるのですが



   彼には彼のペースがあり


   結果的にそのほうが旨く行くと


   彼の中には確信があるわけです。




   しかし、そういう強いリーダーシップをもった人に


   舵取りを任せると、船の同乗員としては


   その進行過程において


   大変非人間的であったり


   家族の事情や気持ちを考えなかったりする態度に


   こっちからみると「ちょっとまってよ」を


   かけたくなることがあります。


   『子供たちが船酔いしてるのが見えないの?」


   とかね。  


    『飲み水がなくなりかけてるわよ!」とか。




   ということで、話し合いを常とする


   日本からお嫁にきた私としては


   ワンマン男の嫁さんでいるのは大変なことでした。


   



   それが、ある時から


   船の揺れに任せて


  のんびり景色を眺められるようになったのは


   「こういう考え方がこの世にある」と


   いうことを認めたときからでした。



  一旦「自分の思考方法」というものを


  突き放して、「それがすべてではない」という


  立場に立ってみたのです。




   彼らの思考の元にあるものを理解しない限り


   たとえば、


   「なにを考えているのか分からないほどの無茶な浪費」

 

   であったり、


   「その場その場の状況にあわせて変わる約束」だったり


   そういうことを理解することが


    非常に苦しい。




  でも、一旦彼らの言い分というのを


   受け入れてみて、


   自分の中で消化してみると


   この人たちはこう考えることに


  矛盾がないのだ


  ということが分かります。



   だからいちいち過ち(だと私の目に映るもの)


   を指摘しても意味がなく、


   効果がない。 自分が疲れるだけ。


   どうせ同じ船に乗るんだったら


    船長が一番能力を発揮できる環境をつくる努力をしたほうが


   自分の生存確率は高まるわけです。


    

   どうせ賭けたのなら、総賭け!


   リスクを考えて、ちょびちょび出さずに


   この人がうまく行くほうに


   最善を尽くした方が良いではないですか。


   結婚してる仲なんだから。



  


    いやならこの船を下りれば良いのであって。


    こんどの船は自分が決めればいい


    何なら私が船長になったっていい。



   草を食って生きる動物と

 

   肉じゃなきゃ嫌という動物がいるように


   なにを最高の価値とするかが


   ずれているための行動の違いがあるようです。




   だから関さんたちが


   つきうごかされてる誰かたちの言い分を聞けば



   『百済人」たちが、列島で、


   百済式にやりたい放題やったのでは


   ないのかしら??と思うのですが、、、


  

   おそらく「百済人」にとってはそれは


   矛盾がなかったはずです。

 

   なぜなら半島でくりひろげてきた「百済式」だから(笑)




    だから列島の人間は、


   半島の人間の言い分を一旦受け入れよう


   という意味ではありませんので、誤解なきように。


   そういう考え方はあまりにも単純です。



   だけど、一旦受け入れて、彼を「王座」につけてあげると


   結局は、そういう度量を見せた人間に対して


   排斥して馬鹿にするのではなく


   心から「尊敬」が沸いてくる。


   獲物をとってきたら、自分が食べるよりも


   まずそこにいる人たちの口に入れてあげることから


    考えるというのが


   このタイプの人たちがきちんと「成熟」した場合の特徴のようです。



   だから無茶なことを言ってるようでも


   「そんなに警戒することはない」と思うのです。


   というのが、『百済な男」と結婚した日本人の感想なのですが


 

   これを、国際政治に適応するには


   サイズがあまりにも違うので、、


   安易に大丈夫よ!とはいえませんが



   思うのは、こうしていろーんな人が


   いろーんな歴史の思いに突き動かされて


   なんだか分からないけど、「歴史の再現」を


   やらされている現代、


   これって「一旦リセットしようよ!」の時期に


   来てるんじゃないのかなあと思います



  私は大きなことはできなくても


  こうして「百済人」と住んでみて


  (あ、いやいやうちの夫は百済文化をむちゃくちゃ愛してますが


   血統は新羅でした。分厚い本のなっがーい系譜がありますが


   血は新羅です)



  彼といろーんな葛藤をクリアしながら


   「道ってあるんだなあ」と思いました



 

   「こういう人と付き合って自分が苦しくならずに

  

   楽しんで、しかもお互いにとって発展していく道がある」ってことを


    文章に残しておくことには、意味があるのだろうと


   思い、コツコツと思ったことを書いている毎日です。



   意味があるというのは



  

  お互いが「人格が丸くなる」「いいひとになる」


    という努力をせずにです。


  「わたしが変わらなきゃ」でもなく


 「あんたが変わればすべてうまくいく」でも

  

  ありません。


  お互いに『針ネズミタイプ」であっても


  共存できる道があることが、希望です。



   私はその過程で、『自分が丸くなる」というより


   「より尖った」気がします。


   やりたくないことに言う「ノー」の数はどんどん増え


   自分の感覚を頼りに「好き」なことだけ


   やっていることが多くなったような気がします。


   なのにぶつかる回数は減るのです。明らかに。


   嫌なことをやらないというのは


   怠惰に向かう道ではないのです。


   自分の情熱の対象に深いリスペクトがおきるので


   いっそ勤勉になります。



  

   それは相手に「変われー!」と要求する方向ではありません。


   自分が相手を見ている習慣的な考えとか


    思考のクセを一旦はずしてみる過程でした。


    だから軸足は相手じゃなくて、自分です。


 

   自分が「正しいと信じているもの」


    「良くなると信じているもの」は


  本当に正しいのか?


  それこそが私の「思い込み」ではないのか??


   という自分への限りない問いです。



  だから夫が子供を怒ったとしても


  たとえばテストの成績が悪かったとして。


  夫が子供を叱り飛ばしたとします



  その怒り方が


  「おまえの将来のためをおもって!」

 

  だったら欺瞞だと思います。


  だって、うちの夫は定職を放棄して


  自分の好きなことやってるんです


  自分がフリーで生きてるのに、


  何故子供が学校で「いい点数」を


  とってこないといけないのでしょうか。



  「お父さんが恥ずかしいじゃないか」で一貫している限りは


   自分に嘘をついてないので


   オッケーです。


  

   「お父さんは厳しくないといけない」


   「お父さんは子供に目線を合わせて暖かく接しないといけない」


   どっちでもいいのです


   お父さんが「自分に嘘をついてなければ」

    



  今の科学で「数量化」できるものと


  「数量化」できないものがありますが、



  そのうち「数量化」できるようになったら


  はっきり「幸福度」とか『感謝度」とか


  『恨み度」とか「鬱度」とかが


  「心の中でほんとに思ってる度」なんかも


  キレイに目に見えるようになる日が来るかもしれません。


  今みたいに、なんとなくの数値化じゃなくて。



  つくった料理に「こもった愛情度」とかが


  しっかり目にみえるようになる時代がくるかもしれません。


  おそろしい~! 下手に料理もできません。


 

  

  私は何の立場も持たない一個人ですが


  せめて「自分の中の幸福度」「自分の中の感謝度」を


  あげていく試みは出来るはずです。



  そして、これがある程度進んでくると


  周囲の韓国人の言動というものが

  

   神経に障らなくなります。


  鈍くなってるんじゃないのですよ、


  いっそ感度は高まってるのに。



   



  かなり話が飛躍するかもしれないのですけど


  そういうわけで


  「日本人の中の潜在的恐怖心」が


   消えていくと


  諸外国、とくにアジアの国々との付き合い方は


   変化する可能性があるのではないのかなあと


   思います。



  でもそれをするには


  「歴史に関心を持つ人」だったり


  「出雲に涙して慰労する人」


 または、「百済に涙する人」がたくさん出てきて


  彼らの1000年経っても消えないような悔しさを


  まあ、、、「成仏」「昇華」させてあげる


  「絡まった何かを解いてあげる」


  現代での試みが必要なんだろうなと


 思い、私も現世で地道に頑張ります 。


  


  私もこんな変わった人と結婚しなかったら


  まじめに「百済の歴史」のことなんて


  ゼッタイ考えなかったので、


  完全に「巻き込まれた人」から始まっているのですが、、、


  いまではかなり自分から動いてるのが不思議です。


  私も操られてる??


                                (えみこ)



ps 


  と書き上げたとたん


 旦那からでんわが鳴りました。


  「今週のコラム、全然ダメ!こんなの人様の目に出せるかー!


  まったく別のことを書き直しー!!」


  と、いうことです。


  ちっ!この船長、、海に沈めたろか、、、という真っ黒な雲が


  私の心を覆いそうになる瞬間!


  いえいえ


  もう一歩踏み込んで

  

  「だれにでも理解してもらえるように書く」努力を


   はじめる親切誠実なえみこでした。