山口県大和町石城山(いわきさん)
この山に、謎の石塁遺構が残されている。いつ、誰が何のために築いたのか回答を見いだしたものはいない。
それは神籠石列石群 である。
あなたもこの謎解きに挑戦して下さい。
第一章 石城山の謎
西暦660年の3月、日本を含む東アジアの国際情勢は緊張の極にあった。 中国唐の高宗は、朝鮮半島(韓国)の西半分の百済(くだら・ひゃくさい)を、水軍、陸軍合わせて10万の大軍もって、直撃するよう命じ、同時に新羅(韓国の東半分)の武烈王に対し百済の攻撃を下令。この命を受けた武烈王は同年5月26日百済討滅のための軍を進発させた。 唐、新羅連合軍の攻撃を受けた百済は、ねづよい抵抗をみせず陥落し、王族は捕らえられ、同年11月1日彼らは、唐の都洛陽に到着した。 滅びたとはいっても、百済人は唐の支配に満足していたわけではなく同年10月、遺臣鬼室副信(きしつふくしん)は百済再興を目ざして挙兵するとともに使者を大和に派遣して救援を求めた。
倭国は、蘇我家(蘇我の出自は百済)の勢力が強く百済を国を挙げて救援するこに決定した。 一方百済滅亡により、彼らは大挙して倭国に亡命しました、それにより山口県の[下松市(くだまつ)]も百済の人たちが拓いた港だから百済津(くだらつ)が転化したものであるという説もあります。大阪の百済もまた彼らの居住地であったのではないでしょうか。さらに近くでは、山口県熊毛郡平生町の字に百済部という地名もあります。余談ですが司馬遼太郎さんは、関西人の血の60%は韓国人だとおっしゃっていました。
百済の救援を決めた斉明女帝(皇極天皇の重祚)は西暦663年の1月難波宮(大阪)を中大兄(なかのおおえ、後の天智天皇)、大海人(おおしあま・おおあま、後の天武天皇)、中大兄の子大海人の妃、太田皇女、太田皇女の妹、鵜野讃良皇女(うののさらら 後の持統女帝)、中大兄の妃で額田王たちを伴い船で進発しました。
途中、岡山県大伯で、大海人と太田皇女(天智天皇の娘)との間の子、万葉のなかに哀切極まりない詩を残した大伯皇女が産まれました。持統女帝の世、伊勢神宮の斎宮(いつきのひめみこ 伊勢の神の妻)を解任され、都に帰り、すでに弟の大津皇子はこの世に亡く(殺害された)、うつそみの 人なる吾れは 明日よりは 二上山を 色背(いろせ、弟)と わがみむ
と謡いました。 また母なきあとの弟(母は太田皇女で早くに死んだ)が伊勢の斎宮であった姉の大伯皇女を訪ねて帰るとき彼女は、
わが背子(大津皇子)を 大和へ遣ると さよ更けて 暁とき露に われ立ち濡れし
姉の弟への思いが痛いほどいまのわれわれにも伝わります。
最初の詩は持統女帝に弟大津皇子を殺され、二上山に葬られて悲しみのあまりに詠った詩だといいます。 大津皇子は、那の大津、いまの博多で出生、持統女帝の実姉の子であり自分の旦那(大海人、天武)との間の子でもあります。自分の子である草壁皇子を天皇にしたいためにと考え大津皇子を殺害したのでしょうが、やがてわが子草壁も原因不明の死を遂げます。
日本書紀の中で、草壁皇子の死去の原因について記述がなく不明です。私は、草壁の死の真相は彼女(持統)が一番承知していると思っています。
丁度同じ頃、島根県益田市近郊では、万葉歌人の第一人者である柿本人麻呂も彼女(持統)に死を賜りました。
春すぎて 夏きたるらし 白たえの 衣ほすちょう 天の香具山
の詩から想像もできない残忍性を秘めた女帝であると私はみる。
この進軍の途中、熟田津(現道後温泉)に立ち寄り、万葉第一の女流歌人である額田王は、
熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待てば 汐もかないぬいま漕ぎいでな
この格調高い詩を残しました。 余談になるが額田王は大鏡(おおみわ)氏の娘です。
大和の百済救援軍は筑紫に到着したが同年7月天皇は朝倉宮で崩御したため渡海は延期された。 大和朝廷の、この軍事行動は、自らの権力を安定させるための政治手段であり、政権のイニシアティブをとっていた中大兄皇子は、8月に、第一陣として阿曇比邏夫(あずみのひらふ)・河辺百枝を前將軍、阿倍引田比羅夫・物部熊 ・守君大石 らを後將軍として百済軍の支援に向いました。
9月には第二陣、さらに663年には第三陣として新羅(しらぎ・しんら)を直接攻撃すべく27000人余の救援軍が渡海したということです。これに対して攻撃側の新羅は唐に増援を要請し、唐は山東地方の兵7000人余を海上から百済を攻撃するために派遣しました。
那大津(現博多)を進発した派遣軍は、8月27日、倭の400艘もの軍船が、百済の遺臣らの籠る周留城をめざして、錦江下流の白村江の河口で待ちかまえていた、劉仁軌指揮の唐と新羅の連合水軍170艘をめがけて到着した順で攻撃を加えましたが敗北してしまいました。
翌日再び攻撃をしかけましたが、しかし、突撃した救援軍を唐軍は左右から包こむように攻撃し壊滅させました。 『旧唐書 』は、「煙えん漲天 海水皆赤 賊衆大壊」と記し、「ときのまに、官軍破れぬ」と、日本書記は記しています。
倭国救援軍の艦船の燃え上がる煙は空を覆い尽くし、血は海を赤く染めたと簡潔な文章で書いてあります。一方倭国の記録はほんのわずかな時間で敗けたと記しました。
そしてこの壮大な国家プロジェクトの百済救援計画は、おびただしい人命を失い挫折しました。そして倭国は多くの百済難民を受け入れたのでした。
第二章 倭国防衛計画
この大敗で、唐・新羅連合軍が、倭国に攻め入ることを想定した大和朝廷は、防備のために、太宰府に水城を、近くの大野城市の山上に大野城を、佐賀県に椽城を構築しました。
大和町教育委員会の発掘で、熊毛郡大和町岩田の石城山の神籠石列石群もこのときかどうかは不明ですが本州でただ一個所高度な技術を持っていた集団による山城であることが判明しています。
石城山の水門付近はごらんのように圧巻です。この一連の築城は、大和政権(現天皇家)の命運を懸けた大事業であったはずです。
だが石城山への築城の記録一切残されていません。謎のままです。
左の写真は現在なを水門の役目をはたしており水が滲み出ています。 大王家に次ぐ大豪族の蘇我氏の宗主国、百済救援は、中大兄皇子の政権奪取の過程から、蘇我支族の支援なくして成立しえなかったものであり、その百済救援に失敗した以上当然、唐・新羅連合軍から攻撃を受けることを想定しての防備を急いだことでしょう。山を取り巻く石塁の総延長2533m。水門遺構は東西南北にそれぞれ一個所。石を据える基壇は版築工法で堅固に築いてあるといいます。石材の切り出し、運搬据付け、城全体のレイアウトなど。しばしこの遺構をみるとき深い感懐にとらわれます。
かっては神域説が有力でしたが、発掘の結果このような門遺構が発見されました。写真左手が城内である。写真は北門。遊歩道が整備され石塁のぐるりをまわることが出来ます。
西暦660年の3月、日本を含む東アジアの国際情勢は緊張の極にあった。 中国唐の高宗は、朝鮮半島(韓国)の西半分の百済(くだら・ひゃくさい)を、水軍、陸軍合わせて10万の大軍もって、直撃するよう命じ、同時に新羅(韓国の東半分)の武烈王に対し百済の攻撃を下令。この命を受けた武烈王は同年5月26日百済討滅のための軍を進発させた。 唐、新羅連合軍の攻撃を受けた百済は、ねづよい抵抗をみせず陥落し、王族は捕らえられ、同年11月1日彼らは、唐の都洛陽に到着した。 滅びたとはいっても、百済人は唐の支配に満足していたわけではなく同年10月、遺臣鬼室副信(きしつふくしん)は百済再興を目ざして挙兵するとともに使者を大和に派遣して救援を求めた。
倭国は、蘇我家(蘇我の出自は百済)の勢力が強く百済を国を挙げて救援するこに決定した。 一方百済滅亡により、彼らは大挙して倭国に亡命しました、それにより山口県の[下松市(くだまつ)]も百済の人たちが拓いた港だから百済津(くだらつ)が転化したものであるという説もあります。大阪の百済もまた彼らの居住地であったのではないでしょうか。さらに近くでは、山口県熊毛郡平生町の字に百済部という地名もあります。余談ですが司馬遼太郎さんは、関西人の血の60%は韓国人だとおっしゃっていました。
方軍制として、対馬、壱岐、太宰府に防人を置いたが、私見ですが、その対馬防備軍の分遣隊が、山口県萩市沖約50Kmの日本海に浮かぶ見島に駐屯したものと推定しています。
文部省は、記録に無いために肯定していませんが、唐水軍の倭国侵攻ルートとして日本海ルートは当然考えられ、その早期発見監視を見島が担当したであろう。見島には発掘の結果副葬品から当時都で使われていた品々が出土しています。それは「ジーコンボ古墳群」です。対馬には防人を配置したと記録にありますので、対馬派遣軍見島分遣隊だったかも知れません。
中世以降見島に住み着いた人はそこに沢山の墓があることを発見しました。そして彼らの子供や孫たちにあれは「ジーコンボ」だと教えました。「ジーコンボ」とは島言葉で「爺様の墓」という意味合いです。
防人としての軍務は三年でしたが、必ずしも守られたわけではなく逃亡を防ぐために、主として関東の人たちが任命されたといいます。
関東から、西辺の防備につくための道中は、交通機関の発達した現在の我々には想像もつかないものがあります。時代は下って租庸調の庸や租の納付のために、都に何人もの人々が向かいますが、途中沢山の餓死者が発生してしまいます。ときの政府は発見し次第、埋葬するように各地方行政府に命じていることでも、当時の道中がいかに大変であったかということが推察されます。
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