蜂須賀家政の朝鮮出兵に関する資料を探しに
徳島城博物館に行ってきました。
しかし、休館日などを確認せずに動いたので
行ってみると、休み!
その日は城跡のまわりだけを回って
またで直しました。
徳島城は明治時代の廃条令で、取り壊されてしまったそうです。
残っていた、鷲の門も、 太平洋戦争の徳島大空襲で焼失
これは平成元年に復元された門
そして、ちゃんと開館している日に、再度たずねてみたところ
担当の学芸員さんが出張で休み!
専門外ですが、、、と別の学芸員さんが相手をしてくれました。
ちょうど、「阿波の鉄砲展」
が開催されていて
鉄砲の実物を持たせてもらえるというイベントがありました。
子供達はそっちに送って
私たち夫婦は学芸員さんと、ボランティアの説明員さんと
資料を囲んで話をしました。
「朝鮮出兵のときに、蜂須賀家政が持ち帰った朝鮮の文物は残ってますか?」
「朝鮮から連れて帰ってきた鄭希得の書いた書などは、徳島に残っていますか?」
などの質問をしたのですが
まず、蜂須賀家は6代くらいで血筋が途絶えてしまい
また、最後には没落してしまったので、家の宝物などが売られてしまい
県外の個人所有になっているものが多い。
ということでした。
どこに何があるか、という詳しいことや
特に朝鮮征伐で持ち帰ったものの行き先などに関しては、、、、
把握がむずかしいようです。
では、鄭希得の書き残した
当時の阿波の国に関しての質問
「ここに書かれている城の内部の寺は現在のどこあたるのでしょうか?」
「ここに書かれている虹橋というのは、現在のどこの橋でしょうか?」
しかし、そういうことを調べた人も
関心をもった人も今までいないようで
4人で顔をつき合わせて
「こうじゃないか?」
「ああじゃないか?」
「こういう可能性もあるのではないか?」
の話に終始しました。
いまでは徳島の町に、橋がたくさん掛かっていますが
当時の阿波の中心部にあった橋はたったの4つ。
その中で城からの方向を考慮すると
この「新町橋」が
どうもその虹橋の可能性が一番高い。
この虹橋をわたったところが、
朝鮮人捕虜の居住区になっていた可能性が
うががえるのですが。
橋の向こうに見える山が、眉山(松嶋奈々子主演の映画にもなったあの山です)
この地域は、私が小さかったころ徳島一の繁華街があった地域です。
(現在はシャッター街)
そんなところに、朝鮮人の捕虜が住んでいた?
20世紀の阿波の姿と、この17世紀の地図での阿波の姿は全く違います。
干拓事業でこれ以降現在の徳島市となっている土地が作られて行きます。
冷暖房のある現代では地理的違いは、
生活に大きな影響を与えなくはなくなっていますが
江戸時代においては、風向きや日当たりの差は
非常に大きかった可能性があります。
この新町橋を渡った眉山の麓というのは
地理的に見ると、山の陰であり、しかも西風があたる寒い地域
それほど人が住みたがらない地域であったはずだと
うちの旦那さんは主張します。
朝鮮人捕虜をつかうためには、城の側におかねばならない
しかし近すぎてはいけない。
橋ひとつを封鎖すればこっちに渡ってこられないような場所であり
しかも後ろに逃げ場がないような地理的条件として
ぴったりだというのです。
確かに、確かに、、、 現在の繁華街が江戸時代には
湿地帯だったとか、くさっぱらだったとかいう話は他の地域にもある話で。
決定的に何かが分かったり、つかめたりした訳ではないのですが
徳島城博物館に行って、徳島城の古地図や模型を見せてもらったことで
過去の阿波の姿の輪郭がつかめました。
ここにはこんなものも
江戸時代の鯨舟だそうです。
現物がこうして残っているのは、日本でここだけだとか。
詳しいことは、専門の学芸員さんとやりとりを続けて調査するということで
お礼をいって失礼しました。
しかし、どこに行ってもみなさん実に親切に対応してくださり
ありがたい限りです。
つづく。
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