枡富氏に韓国の勲章を授与させるために働きかけた
鄭成沢氏の談話をまとめます。
あと30分で取材に出るので、それまでに書けたら!
鄭成沢氏は1918年生まれ。
1935年にコチャン高を卒業したが、枡富氏との直接の交流はない。
枡富氏は1934年に亡くなっているので、当然コチャン高で追悼式もあり
コチャン高校が日本人によって創立されたこともぼんやりと
知っていたのだが、あまり意識してなかったそうだ。
この鄭成沢氏は、自分が教育者になった後、枡富氏の業績を知り
この枡富氏を世間に知らしめようと動いたことで教職を追われる。
当時の反日感情からすれば、当然そうなることは
予想がついたはずなのに、
何故この鄭氏は最後まで枡富氏にこだわったのか?
ここからは、私が調べて分かったことの挿入です。
コチャン高校が日帝時代に、民族教育の防波堤となり
その中で後の韓国を支える立派な人材を輩出したということで
コチャン高校の創立関係者が受勲できる土台が1995年当時ありました。
しかし創立者である枡富氏を受勲対象にしようという派と、
二代目校長であった韓国人を受勲させようという派に分かれてしまいました。
どうしても「日本人」にこの賞を与えることに不満が
あった人たちが卒業生達の中にいたのです。
その方たちは日帝時代を直接経験した方ではなく
光復後の強烈な反日教育を受けた世代です。
実際, 学校経営にかかわった二代目校長こそが
日帝の教育から学生を守って
民族教育をしたのだから!というのが枡富反対派の意見でした。
しかも枡富は自分が金が尽きたら学校を手放してるじゃないか!と。
しかしですね、この二代目校長というのは、枡富氏が日本に留学させて
勉強してきた韓国人であり、学校の運営方針も枡富氏と
方向を同じくしていました。
そして、おそらく枡富氏にしろ、二代目校長にしろ、
「勲章」なんて話が出た日には
「いやいや私はそんな立派なものを受けるに値しない。
きみこそ受けるべきだ」
というような人格者であったことは、
資料から十分読み取れるのです。
この枡富氏が私の町で知られていない理由、
この町でこんなにまですごい偉人がいながらも
その歴史的事実が埋もれていた理由というのは
まさにこのときの「受勲の派閥争い」が尾を引いていたのです。
本の話に戻ります。
鄭氏は1966年富安国民学校の校長となった。(現在の小学校)
「生きた教育」を心がけていた彼は
子ども達に、創立記念日を題材に学校の歴史を調べさせた。
すると、彼らの報告からこの富安小学校の設立者も
自分の母校であるコチャン高を創立した枡富氏であることが分かった。
学校の目と鼻の先にあるキリスト教教会さえも枡富氏が作ったことが分かった。
このとき鄭氏は学内でも資料を探し、また近所の住民達に
学校創設の手ががりになるような資料が無いかたずねた。
そうすると学校のすぐ側に住んでいた老人が
「枡富安左衛門追想録」という書かれた
分厚い本を鄭氏に差し出したという。
これは婦人の照子氏が1935年(枡富氏が亡くなられた翌年)に
まとめたものだった。
その追想録に鄭氏は感動を禁じえなかったそうだ。
彼は富安小学校で枡富氏の追悼式をおこなったり、
学校に枡富氏の石碑を立てるなどをして、
枡富氏の業績を残そうとした。
( この石碑をおととい私も直に見てきたのですが
枡富安左衛門と枡富照子の名前が、すごく変なところにあるのです。
一応本文にも枡富の名前は入ってるのですが。
普通は当然石碑の裏か表かに名前が大きく刻まれるでしょう。
しかしお二人の名前、何故か側面の細長い部分にあったのです。
あまりにも露骨に日本人の名前を彫り込むと光復の時のように
反日感情で破壊されてしまうおそれがあるから。)
ことあるごとに「枡富氏」を称える校長を
忌々しく思う教師が出てきます。
鄭校長を「親日校長」と糾弾し
結局、鄭校長は学校を去ることになります。
日本人である「枡富氏」を称えれば
こうなることは十分に分かっていたのに、何故それでも
あなたはこの「枡富氏」の記録を残そうとしたのですか?
という問いに
一つは
「教育者としての信念としか言いようが無い」
そしてもう一つは
「私の家庭には他の郡まで高校に通わせてもらえる余裕はなかった。
もし枡富氏がこの地で高校を設立しなければ
私鄭成沢は高等教育を受けられなかった。
これには心から感謝しなければならない」
と答えています。
鄭氏が子供の頃
全州、郡山、裸里などの大きな町には高校があるにはありました。
しかし、誰でもが通えるというわけではありません。
枡富氏は教育機関の設備の整わなかった農村を
あえて、高等教育機関建設の場に選んだのです。
そしてもう一人、
その問題になった石碑の除幕式に、
祝電を送った一人の韓国人がいました。
それは、趙尙亢という人物。
彼は独立運動に関わった思想犯として、
7年長崎の刑務所に拘留されていた。
拘留中の生活で枡富氏発行の「聖書の講義」か「聖書の研鑽」かどちらかを
通してキリスト教徒になり、その後枡富氏と直接出会う。
枡富氏は彼を、農場の責任者として経営の大部分を任せるようになる。
その後趙尙亢氏は農村の経営と教育に打ち込む人生を送る。
この趙尙亢氏が富安国民学校の石碑設立の祝辞として送った文がある。
枡富先生が日本人であったため、
その功績を公的に称える行事は
憚られてきた。
しかし今回皆様が勇断を示し、
あらゆる感情的にわだかまった世評を退けて
彼の恩功を後の子孫にまで伝えることができるようにすることで
「善は褒め、悪は罰する」というわが国民の公正な行動力を
日本国民と、この地を往来する人々に誇りをもってしめすことができる、、、
この趙尙亢の息子さんである趙東震氏の
言葉も本に収録されている。
東震氏は日帝時代末期、小学校の教師となっていた。
親が独立運動に関わった不逞な輩との理由で
日本人校長の趙東震氏に対する態度は非常にひどいものだった。
1945年8月、日本の敗戦が発表されたその日、東震氏は
その足で校長室に向かい恨みを込めて日本人校長を殴りつけた。
そのことを家に帰って父親の趙尙亢に告げたところ
「馬鹿野郎!」と怒鳴りつけられ、
すぐさま校長室に連れて行かれたそうだ。
そして父親の趙尙亢氏は
「息子が大変悪いことをした。許していただきたい」
とひざまづいて謝罪した。
息子の東震氏は
あれほど日本人に苦しめられた父が何故?? と思ったが
趙尙亢氏は
「死んだものに弓を引くのは小人のすることだ。
負けたものはいたわるのが筋だ」
といったそうだ。
趙尙亢氏はこの校長の身柄を守り、引き上げ列車にのせ
近所に住んでいた日本人達も
無事に日本に帰れるように手配したと東震氏は語る。
こういった枡富氏をめぐる人々の
様々な話が取材によって取り込まれているのですが
この鄭成沢氏、趙尙亢氏の頭の中に
理想の 「大人」 というものがあったのは確かです。
そしておそらくお二方ともこの「枡富氏」の中に
その「大人」の姿を見ていたのでしょう。
この場合、「おとな」 ではなくて 「たいじん」と読むべきでしょうか。
鄭氏の石碑騒動が1970年代。
この時代にはまだまだ社会に
こんな「大人」がいたのですね。
日本から渡ってきた「大人」であった枡富氏との
民族を超えた彼らとの交流。
はー。知らないことが多すぎる。
すんごいなあ 私の町
しかも東学党農民の乱の全琫準もうちの町で生まれた人!
ネタが多すぎる!なのにゼンゼン整理されてない!
ので一生懸命書きます!
'高敞高校枡富さん関連' 카테고리의 다른 글
朝鮮ってどんなところ2012.3.8 (0) | 2013.09.16 |
---|---|
探している人が目の前に!2012.3 (0) | 2013.09.16 |
知られざる掛け橋ー枡富安左衛門2012.3. (0) | 2013.09.16 |
枡富照子さんのこと20.13.3. (0) | 2013.09.16 |
枡富安左衛門さんのこと2012.3.7 (0) | 2013.09.16 |