枡富氏の夫人、 枡富照子さんのことを書きます。
高敞高等学校の古書整理をしている時、
女性の手による本はほとんどない中、
枡富照子という著者の本、そして石井武子という著者の本がありました。
もう今では市場に出回っていない本です。
枡富照子著の本は1943年発行なので、他の書籍とそう年代が変わらないのですが
石井武子著の方は、1977年の本でした。
二つともとりあえず『人物伝記」という分類にして
整理しておきました。
聞いたことのない著者だなあと思いながら。
あとになって創立者の枡富氏のこと、そしてそのお嬢さんである
石井氏が1995年韓国を訪問して代理受賞したことなどが分かり
ああ、創立者のご親族が書いた本だったのかと腑におちました。
しかし現在の高敞高等学校では
そのことを全く把握してなかったので
「そんなのが書庫にあったんですか!」
と先生達にビックリされました。
書庫整理しないといけないですねえ。
枡富氏のことをもっとよく調べるために
この二冊の本を昨日高敞高等学校から借りてきて読んだのですが
いやーびっくりしました。
なににビックリしたかというと
枡富安左衛門氏の夫人である枡富照子氏の手による
「稔」という本は、婦人である照子氏が
てっきり枡富安左衛門氏との思い出をつづった本だと思ってたのですよ。
違う!違う! ゼンゼンそうじゃなかったです。
いい意味で裏切られました。
ご主人のことも書いてないわけではないのですが
この枡富照子さんという方が
相当な和歌の作家で
その和歌を中心に編んだ一冊だったのです。
ご主人の枡富氏の偉業とは何の関係もなく
枡富照子氏は、1943年に和歌集を出版するほどの教養人だったのです。
枡富照子氏は亡くなるまでに6冊の和歌集を出版なさっています。
大変美しい方だったそうです。
というのは
お嬢さんの石井武子さんの書いた
「母、枡富照子」 の中に
母の話をすると、
「ああ、あのお美しい枡富婦人」という枕詞がついて
その方の思い出話が始まる。
そうでしたから。
枡富氏が
1934年に亡くなられた後、
枡富婦人が残された農場の女主人となり経営します。
これは亡くなられたご主人にささげた歌
高らかに共にうたふをまちましし
君にささぐるこれらの歌巻
この十とせ全羅平野につみためし
言の葉草をみ手にささぐる
『稔」という和歌集には、
その時期の枡富婦人のつづった和歌が残されています。
それだけではなく、
枡富照子氏が、初めて朝鮮の地を踏んだ時の感慨
出会った人々、(照子氏はご自分の和歌の才能を生かして、独自の人脈をもっていたようです)
農業経営をしながら
洪水がでたときに作った歌
刈り取りのときにしたためた歌
豊作をいのる胸のうちをつづった歌
私はこれを読みながら涙が出てきました。
100年前のこの町、荒れた農地。
そこでこんな詩情を胸に、女主人として農地経営を切り回していた日本女性がいた。
ということに。
そしてこの照子氏の感性の豊かさ、教養の高さ。
そしてご主人の一生を奉仕活動にささげさせることをいとわない深い信仰心
また、ご自分が中心になった農場の主人としての経営能力。
こんな独立した女性がいたんですね!
私は、この方が手がけた富安の農場に行こうと思えば
車で10分あれば着きます。
今でもそう開拓された土地ともいえないような
すごい田舎です。
そこで和歌を編んでいた!和歌集を出版していた!
この全羅道の自然を読み込んで。
これはご主人の枡富氏とは別の意味での功労だと思うのです。
この同時期に朝鮮の詩人としてはかなり有名な人物が
この富安からでていて、現在では記念館もあるほどなのですが
(当時は学生だったはずですが)
この両者のあいだに交流がなかったのかが気になります。
詩のタイプは全く違いますが。
また、この照子未亡人は篤いキリスト教信者で
おそらくご主人亡き後、富安教会での礼拝も説教も担当なさっていたようです。
横には朝鮮語通訳がついて、村人に朝鮮語で訳されたようです。
うーん、すごすぎる。
かといって、カチカチのマリア様みたいな女性ではなく
石井武子さんの記録によると
照子さんはユーモアがあり
よく冗談をいって
昼寝をするときなどにも
「さーさ、寝る子は育つっていうから
私も寝て大きくなりましょー」
などといって横になってたような明るい楽しい方だったようです。
お子さん達には
早く逝かれたご主人の枡富氏の話をしょっちゅうしてらしたそうです。
これは晩年の照子氏(1964年)
念願の枡富農場再訪の姿
照子氏は日本に帰国した後も
朝鮮の農場によく思いを馳せていたそうです。
この時身に着けているのは
チマチョゴリではないでしょうか?
この韓国訪問は照子さんの和歌のお弟子さんにあたる
韓国人女性の努力と韓国キリスト教会の協力で実りました。
照子氏は1972年 84歳でこの世を去られたそうです。
照子しは賑やかなことが大好きで
「私のお通夜には楽しいエピソードを話してみんなで笑ってちょうだい」 と
お嬢さんにおっしゃっていたそうです。
なんでこんなストーリーが
この町で今まで知られてなかったのか分からないのですが。
日本人の間でもそんなこと調べる人がいなかったみたいで
私が「○○なんだって!」という話は
ここの町に20年住んだ日本人に話しても
「ええっー! そうなの?」 ということに。
枡富氏の韓国での国民褒章の受章のとき、
石井さんがうちの町と高校を訪問なさいました。
そしてそのときのうちの町の文化院院長という韓国人男性が
郡のお金で日本に出張し、石井さんのおうちまで訪問したらしいのですが
そのときの情報を郡民に公開してないらしいんです。
「なぜ?」
高敞高等学校の
校長先生たちが創立者について
詳しいことが分からない理由もそこにあったらしい。
「どうして日本側のその情報公開しないんでしょうか?」
と聞くと
「文化院の院長が死んだら家から資料が出てくるんじゃないですか?あの人もう年だし」
というお答えがかえってくるという
罰当たりな会話を交わしたのでした。
しかし、すっごいなあ 私の町。
だって同時期に
韓国の大財閥の発祥地となって
、韓国一の民族教育施設があって
しかもその当時に女性の出版人と
韓国一有名といわれる韓国人詩人を輩出してるんだ。
現在でもこの町出身の国会議員が韓国全国に6人いる。
他の町から出馬した人だけど
現在6万人しか人口がいない町から
国会議員6人出してるってすごいことで、
「韓国人材排出の宝庫」と呼ばれるのもここからきてる。
だいたい枡富さんの作った学校の最初の生徒8人か9人のうち
二人が当時のソウル大に入ってるっていうんだから。
そういえば古書整理のときに
戦前の「幼児英才教育」本まであった!
一体どんな教育してたんだか!
うーん 、田舎暮らしがどんどん面白くなってくるのでした。
'高敞高校枡富さん関連' 카테고리의 다른 글
枡富氏をとりまく「大人」の姿2012.3 (0) | 2013.09.16 |
---|---|
知られざる掛け橋ー枡富安左衛門2012.3. (0) | 2013.09.16 |
枡富安左衛門さんのこと2012.3.7 (0) | 2013.09.16 |
木浦の共生園2012.3 (0) | 2013.09.16 |
図書館の蔵書2012.2.1 (0) | 2013.09.16 |